Subject   : アッシリア帝国

カテゴリー  : 歴史  


 アッシリア帝国
  ヒッタイト、ミタンニ、カッシートが滅びた後メソポタミアはエラム、イシン、アッシリア、アラム系カルデア人などの勢力が勃興し、次第にアッシリアが優勢になってきた。  アッシリアは前2000年頃からティグリス川上流のアッシュールという都市を中心に交易に従事し、古バビロニアやミタンニに服属して、幾たびかの盛衰を繰り返していた。アッシリアが優勢になってくるのは前930年頃からで、征服した人々の抵抗力を弱めるため強制移住政策をとるのを常とした。また、首都をアッシュルからカルフ(現ニムルド)に移した。

 ティグラト・ピレセル3世(在位前744〜727年)のとき、シリア・パレスチナ諸都市同盟軍を破りダマスカスを陥落させ、バビロニア王を兼ね、イスラエル王国を滅亡させた。サルゴン2世(ピレセル3世とのつながりは不明、在位前721〜705年)はシリア・パレスチナ諸都市同盟軍を再度破り、被征服民の強制移住を行った。その子センナケリブ(在位前704〜681年)は首都をニネヴェに移し、バビロンを破壊したが、息子たちに殺されてしまった。その後息子の一人エサルハドン(在位前680〜669年)が即位、父王を殺した兄たちを一掃し、前671年エジプトを征服し、アッシリアの版図を最大にした。

 エサルハドンは息子たちのうちアッシュル・バニパルをアッシリア王とし、その兄にあたるシャマシュ・シュム・キンをバビロニア王と定めた。アッシュル・バニパル(在位前668〜627年)は、再びエジプトに侵攻、首都メンフィスを占領しテーベを陥落させた。しかしバビロニアとの間に兄弟戦争が勃発し、バビロニアが敗北したが、アッシリアはその後衰退、前612年新バビロニアとメディア連合軍によってニネヴェ陥落、前609年には残存勢力も滅び滅亡した。

 アッシリア滅亡後のオリエントは四国が分立する。新バビロニア王国(メソポタミアからシリア、首都バビロン)、リディア王国(小アジア)、メディア王国(イラン高原)、サイス朝エジプトだ。

● 新バビロニア
 アッシリアを倒してメソポタミアの支配者となったのは、カルディア人(アラム系)の新バビロニアだった。首都は古バビロニアと同じバビロン、ナボポラッサル王(在位前625〜605年)はメディアと連合してアッシリアの首都ニネヴェを陥とした(前612年)。
 その子ネブカドネザル2世(在位前605〜562年)はシリアに何度も遠征し、シリア・パレスティナの覇権をエジプトから奪った。前586年にはユダ王国を滅ぼし、ユダ王とユダの人々をバビロンに連行した(バビロン捕囚、全2回)。2世はまた、アッシリアのセンナケリブにより破壊されたバビロンの再建に情熱を注ぎ、マルドゥク神殿に付属する高塔ジグラトを再建完成させた。
 新バビロニア王国は前539年、アケメネス朝ペルシアの軍門に下りその属州となったが、その後もバビロンの町は栄えた。

● メディア
 イラン高原は古くはエラム人(語族系統不明)が文化を担い、メソポタミアのシュメール人やアッカド王国、ウル第3王朝、古バビロニア王国、アッシリアなどと、相互に侵略し合い、もしくはその支配下に入った。最盛期には、スサを首都としたエラム王シュトルク・ナフンテ1世が、バビロニアの多くの町を陥とし、シッパルからハンムラビ法典の石碑を奪って、スサに建て直した(前11c半ば)。今日ルーブル美術館にあるハンムラビ法典石碑はこうしてスサから出土したものだ。エラムは前7c末迄には北方のメディア王国の支配下に入り、その後エラムとして再興することはなかった。しかし、エラムの行政制度や官僚機構は、メディアやアケメネス朝ペルシアに取り入れられ、エラム人は権力の中枢に入って政治を動かした。アケメネス朝においては、エラム語は公用語の一つとなって、使われ続けた。

 一方イラン東北部には中央アジアの草原地帯から印欧系のアーリア人が侵入した(前2000〜1000年頃)。アーリア人は諸部族がゆるやかな連合体を作っていた。後にアケメネス朝の国教となるゾロアスター教も、前1200〜1000年頃興った。ゾロアスター教の聖典「アヴェスター」は、インドに向かったアーリア人の「リグ・ヴェーダ」と成立にそれほど時間的な差がないため、明らかな近縁関係が認められる。イラン高原のアーリア人はイラン人の主要な勢力となった。
 メディア王国はこのイラン人の国でエクバタナ(ハメダーン)を本拠地とした。アッシリアは前9c半ばから、対メディア遠征を行っていたが、メディア王キュアクサレスのとき、軍隊を槍、弓、騎馬の三軍に組織し、バビロニア(新)のナボポラッサル王と同盟してアッシリアと戦い、前612年アッシリアの首都ニネヴェを陥してこれを滅ぼした。また、娘をナボポラッサルの王子ネブカドネザル2世に嫁がせ、バビロンとの友好関係を維持した。さらに、アナトリアのリディア・アリュアッテス王と対峙した(前585年)ものの、その後リディア王の娘を王子の嫁に迎え、新バビロニア、メディア、リディア・オリエント3国は姻戚関係で結ばれることになった。

● リディア
 ヒッタイト滅亡後アナトリアでは、ゴルディオンを首都としてフリギュア(印欧系)王国が支配したが、前685年ゴルディオンが遊牧民族キンメリア人に略奪され、滅びた。この王国は不明な点が多いが、伝説と考古出土物が示すところによれば、建築・美術・技術・音楽などでギリシア文明の先駆けをなしたと考えられる。

 この後リディア人(印欧系)のギュゲス(在位前685〜657年)がアッシリアの援助を受け、キンメリア人を撃退、首都をサルディスとしてリディア王国を建てた。また世界で初めて貨幣を鋳造した。しかし、再び侵入したキンメリア人のために敗死した。
 サルディスにはギリシア人が多数住みつきギリシア文化が浸透する一方、イオニア地方のギリシア都市ではオリエントとの接触で東方の技術・学問・宗教が伝えられ、前6cイオニアのギリシア人の間で、哲学を中心とした輝かしい文化的発展が突如として起こった。

 4代王アリュアッテス(在位前610〜560年)はキンメリア人をアナトリアから追い払い、新バビロニア王ネブカドネザルと講和、メディア王キュアクサレスと戦った。次王クロイソス(在位前560〜546年)は、アナトリア西岸のすべてのギリシア都市を征服し、アナトリア東部でペルシア王キュロスと戦ったが、やがてキュロスによりサルディスを陥落され、クロイソスが捕虜となってリディア王国は滅亡した。以後リディアはペルシア帝国のサトラペイア(州)となった。
 ⇒ 世界史年表

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