Subject   : アーリア人の侵入

カテゴリー  : 歴史  


 アーリア人の侵入
 紀元前2300〜紀元前1800年の間、南アジアに位置するインド亜大陸は青銅器文明が栄え(インダス文明)、ハラッパー遺跡(インダス川上流・パンジャーブ地方)、モヘンジョ=ダロ遺跡(インダス川下流のシンド地方)を残した。しかし陵墓や宮殿跡、あるいは武器、王の彫像などがみられず、どちらかといえば庶民生活関係の遺物が多く出土した。

 この文明の真の滅亡原因は不明だが、河川氾濫・気候乾燥化・交易中断・統制者の死亡などの諸説があり、その中で、侵入民族の破壊説もあったが、年代のズレがありこの説は否定されている。その侵入民族がアーリア人であった。東方系のインド=ヨーロッパ語族であるアーリア人は、もともと中央アジアの草原地帯で遊牧生活を営んでいたが、紀元前2000年頃、馬と戦車でもって、大移動を開始する。"高貴(="アーリア"の意味)な民族"と自称したアーリア人は、紀元前1500年頃、ヒンドゥークシュ山脈にあるカイバー(カイバル)峠を越えて、パンジャーブ地方に侵入し、先住農民(ダーサ?)を征服、農耕・牧畜生活を営み、氏族ごとに村落を形成した。

 アーリア人の財産は"牛"であり、牛を神聖視する風習であった。また雷・雨・雲・太陽など自然現象を神格化したため多神教信仰となり、供物と讃歌を神々に捧げ、崇拝した。この神々に捧げた讃歌や儀礼などを載せた聖典が「ヴェーダ」で、その中でのインド最古の聖典はB.C.1200〜B.C.1000年頃に成立した「リグ=ヴェーダ」である。祭祀が形式化したことで司祭者も出現し、アーリア人はヴェーダを通じて先住民との間に人種・文化双方で融合・混血していった(以降は純粋なアーリア人ではなく、アーリア系民族と呼ぶのが正しいですが、複雑を避けるため、アーリア人の呼称を使わせていただきます)。紀元前1000年頃、アーリア人は肥沃な地を求めて東方への移動を開始、ガンジス川上流域に入り、定着した。前800年頃には青銅器に次いで鉄器を使用し始め、中流域へも定着していった。ここでは先住民から稲作を知り、拡大生産型の農耕生活となっていく。

 農業生産の増加は人口増加をもたらし、王(=ラージャン)中心の部族連合国家の形成へとつながった。また階級制度も一層本格化し始め、宗教・学問を司る司祭者階級のバラモン、政治・軍事を担う武士・貴族階級のクシャトリヤ、農牧・商工業を担う庶民階級のヴァイシャ、そして被征服民を主体とする隷属民階級のシュードラの4つの階級が生まれた。これをヴァルナ(四種姓)という。ヴァルナは「色」の意味で、征服民と被征服民の肌の色の違いで身分を分けることを表した。インドではこのヴァルナを、生まれを同じくするものの集団という意味を持つ「ジャーティ」という語を一般に用いた。さらに、時が進んで15世紀末の大航海時代の全盛期、インドに来航したポルトガル人が「血統」「家柄」を意味するカスタ(casta)と呼んだことから、カーストという呼び方が生まれた。

 この制度により、ラージャンの権力が次第に強大化し、小王国が各地に分立した。この頃にクシャトリヤ勢力の台頭を反映したインドの2大叙事詩「マハーバーラタ」「ラーマーヤナ」の原型が生まれている。また宗教面でも、B.C.800年頃、司祭者のもとでバラモン教が創始されたが、ヴェーダ信仰の徹底、宗教的儀式の複雑化が進められ、バラモン教の形式主義化が進行した。しかし、このような形式主義が徹底されると内面の強化を主張する一派があらわれるもので、この一派が信仰したのはヴェーダの文献の最後に付け足された奥義書であり、ウパニシャッド哲学と呼ばれた(B.C.700〜B.C.600頃)。これは、宇宙の創造者であり支配者である梵(ぼん。ブラフマン)と人間本体の我(が。アートマン)を一致させて(梵我一如=ぼんがいちにょ)全ての苦しみから解脱するという内容で、魂は生まれ変わるという輪廻思想を合わせ持った。

 前7世紀頃になると、アーリア人の建設したガンジス流域の小王国は16国となった。その中の一国が、シャカ(ガウタマ=シッダールタ。B.C.566頃〜B.C.486頃)の開いた仏教、ヴァルダマーナ(マハーヴィーラ。B.C.549頃〜B.C.477頃)の開いたジャイナ教といった宗教などを誕生させ、経済・社会ともに発展し、古代インド史において重要な意味を持つマガタ国であった。
 ⇒ 世界史年表

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