Subject   : ディアドコイの争い

カテゴリー  : 歴史  


 ディアドコイの争い
 アレクサンドロスは遠征開始後10年で大帝国を建設したが、支配体制が確立していなかった。大王は「強い者が帝国を支配せよ」と後継者を決めなかったため、部将達は自分が後継者(ディアドコイ:Diadochoi)と主張して争った。帝国は、次の3つに分裂した。

部将名 支配地域 メモ
アンティゴノス
Antigonos
マケドニア BC277年、アンティゴノスの孫アンティゴノス2世がアンティゴノス朝を開く。
セレウコス
Celeukos
シリア・イラン バビロニア総督セレウコスが、インド西部から小アジアにいたるセレウコス朝を建国。
プトレマイオス
Ptolemaios
エジプト BC304年、エジプトにプトレマイオス朝を開く。


● アンティゴノス朝マケドニア
 アンティゴノスとその息子デメトリオスは、BC301年のイプソスの戦いでセレウコスとリュシマコス連合軍に敗れ、アンティゴノスは戦死した。デメトリオスは小アジアとシリアの領土を失い、ギリシャの一部を領有するだけになった。
 BC277年、孫のアンティゴノス2世がマケドニアの王位争いに勝ち、マケドニア王となり、アンティゴノス朝マケドニアが始まった。首都はペラ(Pella)。
 BC215年、フィリッポス5世はハンニバルに使者を送り、カルタゴと同盟を結びローマに対抗した。その後3次にわたるマケドニア戦争の結果、ローマに滅ぼされた(BC146年)。

● セレウコス朝シリア
 セレウコス朝は、アレクサンドロス大王領の大部分を支配下に置いたが、国土が広すぎてすぐに分裂が始まった。首都は、アンティオキア(現トルコのアンタクヤ)。
 BC300年頃に、マウリヤ朝のチャンドラグプタにインド西部を奪われ、小アジアのベルガモン、黒海沿岸のビテュニアやポントス、内陸のカッパドキアが離反していった。 BC255年、中央アジアアム川上流に移住したギリシア人が独立してバクトリア(Bactoria:〜BC139)を建国、BC248頃には遊牧イラン人がパルティアを建国した。パルティアは、西アジア初めての遊牧民国家である。
 セレウコス朝はBC2世紀に入ると、パルティアに次々と領土を奪われ、シリアを領有するのみとなった。BC64年、ローマのポンペイウスによって滅ぼされた。

● プトレマイオス朝エジプト
 プトレマイオス朝は、ヘレニズム三国の中で最も長く繁栄した。プトレマイオスは、アレクサンドリアにムセイオン(Museion:博物館 museum語源)を建て、学者を集めた。また、港に世界の七不思議の一つである「アレクサンドリアの大灯台」の建設も行った。アレクサンドリアはヘレニズム文化の中心地となった。
 プトレマイオス朝はその後300年続くが、BC30年、最後の女王クレオパトラ7世の死とともに滅亡しローマの支配下に入る。クレオパトラは、プトレマイオスの子孫でギリシア人である。
 ⇒ 世界史年表
 ⇒ アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世)

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