Subject : マウリヤ朝
カテゴリー : 歴史
マウリヤ朝(インド)
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インドのマガダ国の王朝で、前4世紀の末にインドを初めて統一した。
前317年、ナンダ朝などに続いて成立したマガダ国の王朝で、初代のチャンドラグプタ王の時、はじめてインドを統一した。チャンドラグプタは、アレクサンドロスの侵入によって混乱した西北インドを征服し、インダス川流域からギリシア人勢力を一掃してその支配領域を拡大し、はじめてガンジス川流域からインダス川流域に及ぶ大国(南端部は除く)を建設した。都はパータリプトラ。マウルヤ朝とも表記。前3世紀のアショーカ王の時代が全盛期で、王の保護によって仏教が栄えた。
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アショーカ王の死後は衰退し、前180年に滅亡し、インドは長い分裂の時期に入る。北西インドにはギリシア人の王メナンドロスが一時支配し、後1世紀頃バクトリアからクシャーナ朝が進出して支配されるが、インダス川流域に統一王朝が現れるのは320年のグプタ朝である。
- ● チャンドラグプタ
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マガダ国のクシャトリヤ出身。ナンダ朝を倒してマウリヤ朝を始める。在位前317〜296年頃。インド史上最初の大帝国を出現させたので「インド人の最大の王」とされ、国民的英雄である。チャンドラグプタはアレクサンドロス大王がペルシア帝国を倒し、パンジャーブ地方に侵入したことに刺激を受け、大王が去った後のパンジャーブに入り、支配を及ぼした。その年代には不明な点が多いが、ギリシア側資料にサンドラコットスという名であらわれる人物に比定されている。またヘレニズム時代のセレウコス朝シリアの使節としてパータリプトラに派遣されたメガステネスの記録によってチャンドラグプタ時代のインドの状況を知ることが出来る。チャンドラグプタのマウリヤ朝に仕えた宰相のカウティリヤには、国家統治について述べた『アルタ=シャーストラ』(実利論)が残されている。
- ● アショーカ王
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マウリヤ朝第3代の王。チャンドラグプタの孫。在位紀元前268〜232年頃。中国では阿育王として知られる。マウリヤ朝全盛期の王で仏教の保護者としても知られる。その支配領域をガンジス川流域・インダス川流域からデカン高原まで及ぼし、現在のインド(南端はのぞく)とパキスタン、バングラディシュのほぼ全域を支配した。しかし、デカン高原の東南部のカリンガ国を征服したとき、王自身が戦争で多くの犠牲を出したことを深く恥じて、仏教に深く帰依するようになり、この時代に仏教が興隆した。また、だけでなくバラモン教、ジャイナ教も保護した。アショーカ王は国内に道路を引き、井戸を掘り、病院や薬草園を造って民衆の生活の安定を図った。また政治理念として普遍的な法(ダルマ)を掲げ、それを唱った詔勅を石柱や岩壁に刻んで(石柱碑・磨崖碑)民衆を教化した。王子をスリランカに派遣して仏教を布教した。またアショーカ王の時代に3回目の仏典結集が行われ、仏教史上理想的な王とされている。アショーカ王の時代のインドではブラーフミー文字が使用されており、アショーカ王碑文も解読されている。アショーカ王の没後はマウリヤ朝は衰退に向かい、前180年頃滅亡し、インドは再び分裂状態となる。
アショーカ王は兄弟と争って即位し、そのとき99人の異母兄弟を殺したという。即位後も暴虐の限りを尽くし、人々からチャンダ・アショーカ(暴虐阿育)と呼ばれ恐れられた。
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