Subject   : 秦

カテゴリー  : 歴史  


 秦
 秦は中国の王朝。周代、春秋時代、戦国時代に渡って存在し、紀元前221年に中国を統一したが、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間(紀元前221年 - 紀元前206年)を秦代と呼ぶ。国姓は?(えい)。統一時の首都は咸陽。

 商人の呂不韋が趙でひもじく過ごす子楚を見つけ、子楚に投資をし荘襄王として即位させる。荘襄王は呂不韋の愛妾のひとりをもらい受け、子供を生んだ。それが政である。紀元前255年に完全に周を滅ぼしてその領地を接収した。周滅亡後の紀元前247年、魏の信陵君が五カ国連合軍を率いて秦に攻めてきたため、王?と蒙?が迎え打ったが敗れて函谷関まで撤退した(河外の戦い(中国語版))。秦が信陵君に流言を流すと、魏の安僖王(中国語版)が信陵君を政治から離した為、秦は危機を脱することが出来た。 紀元前247年に13歳で政が即位したが、呂不韋が相国となって実質的な権力を握り、紀元前241年には?の戦い(中国語版)で、趙、楚、魏、韓、燕の五カ国連合軍を撃退した。 紀元前238年、政の実母の愛人である??が反乱を起こすがすぐに鎮圧させる。これに連座して商人から宰相になり権力を握っていた呂不韋が失脚、政が権力を握った。

次に韓の公子韓非が法を説き政を感服させる。だが韓非は李斯に自害させられ、李斯が丞相を任じられ国力増強に努め韓・魏・趙を滅ぼした。紀元前227年に政が燕からの刺客荊軻に殺されそうになるが危機を脱した。紀元前223年に王翦が秦最大の敵であった楚を滅亡させ、燕を滅ぼし、紀元前221年に斉を滅ぼし中国を統一し、政は自ら皇帝(初めての皇帝なので、始皇帝という)を名乗った。この皇帝の称号は、中国の伝説上の聖王である三皇五帝からとったものである。

始皇帝は度量衡・文字の統一、郡県制の実施など様々な改革を行った。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設は主に農民を使役して行われた。焚書坑儒などの思想政策も行った。過酷な労働と極度の法治主義と儒教弾圧に国内は不満が高まり、反乱の芽を育てた。匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(中国語版)(現在の広東省広州市)・桂林郡(中国語版)(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(中国語版)(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。始皇帝は不老不死を求め、国外への漫遊を配下に命じ、徐福は船で日本に向かったとされている。

始皇帝は人体に有毒な水銀が不老不死の元であると信じ、これが逆に始皇帝の寿命を縮める結果となる。始皇帝は巡幸中に死亡、身辺の世話をしていた宦官趙高と丞相李斯によって隠され、長子の扶蘇ら始皇帝の血族者ら権力者を次々に処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を敷いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高は章邯を将軍として討伐軍を送る。章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破し、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし項梁の甥の項羽との決戦に破れ、章邯たちは捕虜となる。項羽は咸陽に向かう途中で造反の気配を見せた秦兵20万を穴埋めにして殺してしまった。

李斯にでっち上げの罪を着せて殺害し権力を握った趙高は章邯が大敗しさらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き狼狽し、二世皇帝を暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を立てて民意の安定を図ろうとするが、子嬰らによって誅殺された。

その後、劉邦が咸陽へ入ると、子嬰は降伏し、秦は滅亡した。劉邦は子嬰を殺さないことにしていたが、後から咸陽にやってきた項羽は子嬰一族を殺し、咸陽の美女財宝を略奪して、火をかけ、咸陽は廃墟となった。


 ⇒ 世界史年表

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