Subject : 班超(32年 - 102年)
カテゴリー : 歴史
班超(32年 - 102年)
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字は仲升(ちゅうしょう)。父は班彪、兄は班固、妹の班昭と班超の一家は歴史家一家であった。子は三男の班勇(字:宜僚)ら。
班超も兄と一緒に幼い頃から歴史を学んでいたが、明帝の勅命により竇固の匈奴討伐軍が組織されると参加した。
?善国(?は善におおざと)に使者として行った時に、初めは歓迎されたのが次第に雰囲気が悪くなってきた。その時匈奴の使者も来ていたのである。このままでは殺されると考えた班超は怯える部下達に「虎穴に入らずんば虎子を得ず(不入虎穴焉得虎子)」と勇気付けて、匈奴の一団に切り込んだ。班超たちは36人しかおらず匈奴ははるかに多かったが奇襲を受けた匈奴の使者達は慌てふためき、見事班超たちの大勝に終わった。
その後もこの辺りの匈奴の勢力を討伐し、西域の南は後漢の勢力に置かれた。しかし75年(永平18年)に明帝が死に、章帝が即位すると班超たちには帰還命令が出た。
漢軍が引き上げれば、その後には当然匈奴たちが舞い戻り、漢に味方した者を皆殺しにするだろう。班超は西域の王や貴族達に泣きつかれ、残る事を決意した。91年(永元3年)、班超は匈奴の息がかかった亀茲(クチャ)を討ち、朝廷から西域都護に任じられた。
97年(永元9年)、部下の甘英を大秦(ローマ帝国)、條支(シリア?)に派遣し、国交を求めようとしたが、甘英は行き着くことが出来なかった。
100年(永元12年)、班超は西域にいる事31年におよび、故郷の漢土が懐かしくなり、朝廷へ帰国の嘆願書を出した。102年(永元14年)にその願いが聞き入られ、洛陽に帰ってきた班超はまもなく故郷で死去した。
班超がいなくなると、羌が涼州で反乱を起こしたので、漢の西域への支配力が低下し、西域は匈奴やクシャーナ朝(大月氏)の勢力の影響下に入った。その後、漢は班超の子の班勇らを派遣して再び西域諸国を支配したが、班勇が西域を去ると、西域諸国は漢に反逆し、結局、班超がいた頃の勢力を取り戻す事は出来なかった。
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