Subject : 東ローマ帝国
カテゴリー : 歴史
東ローマ帝国
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東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域を指す通称である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス。
初期の時代は、内部では古代ローマ帝国末期の政治体制や法律を継承し、キリスト教(正教会)を国教として定めていた。また、対外的には東方地域に勢力を維持するのみならず、一時は旧西ローマ帝国地域にも宗主権を有していた。しかし、7世紀以降は相次いだ戦乱や疫病などにより地中海沿岸部の人口が激減、長大な国境線を維持できず、サーサーン朝ペルシアやイスラム帝国により国土を侵食された。8世紀末にはローマ教皇との対立などから西方地域での政治的影響力も低下した。
領土の縮小と文化的影響力の低下によって、東ローマ帝国の体質はいわゆる「古代ローマ帝国」のものから変容した。「ローマ帝国」と称しつつも、住民の多くがギリシア系となり、7世紀には公用語もラテン語からギリシア語に変わった。これらの特徴から、7世紀以降の東ローマ帝国を「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と評す者もいる。「ビザンツ帝国」「ビザンティン帝国」も、この時代以降に対して用いられる場合が多い。
9世紀には徐々に国力を回復させ、皇帝に権力を集中する政治体制を築いた。11世紀前半には、東ローマ帝国はバルカン半島やアナトリア半島東部を奪還し、東地中海の大帝国として最盛期を迎えたが、それも一時的なもので、その後は徐々に衰退していった。11世紀後半以降には国内の権力争いが激化し、さらに第4回十字軍の侵攻と重なったことから一時首都コンスタンティノポリスを失い、各地に亡命政権が建てられた。その後、亡命政権のひとつニカイア帝国によってコンスタンティノポリスを奪還したものの、内憂外患に悩まされ続けた。文化的には高い水準を保っていたが、領土は次々と縮小し、帝国の権威は完全に失われた。そして1453年、西方に支援を求めるものの大きな援助はなく、オスマン帝国の侵攻により首都コンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国は滅亡した。
古代ギリシア文化の伝統を引き継いで1000年余りにわたって培われた東ローマ帝国の文化は、正教圏各国のみならず西欧のルネサンスに多大な影響を与え、「ビザンティン文化」として高く評価されている。また、近年はギリシャだけでなく、イスラム圏であったトルコでもその文化が見直されており、建築物や美術品の修復作業が盛んに行われている。
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