Subject : フランク王国
カテゴリー : 歴史
フランク王国
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中世初期の王国。名前の通り、ゲルマン民族の一部族であるフランク族によって5世紀末に建てられた。
ゲルマン人の大移動期にはゲルマニアにほど近いガリア・ベルギカ*1に勢力を張り、この地域が王国の中心だった。本拠地を固め、また早期にキリスト教を受け入れたことで後々の発展の基礎を得、以後メロヴィング朝の下で勢力を拡大してガリアの支配を確立する。
だが、慣習に基づく分割相続によって王国は分裂し、政治的実体としてはなかなか安定しなかった。このような状況下で実権は王から実務を取り仕切る宮宰へと移っていく。ここで新たな有力者として台頭したのがカロリング家であった。
ことに8世紀のカール・マルテルはイベリア半島より侵入したイスラーム勢力をツール・ポワティエ間の戦いで撃退して声望を大いに高めた。また彼は封建的な土地の授受を部下に行い、中世的な騎士を作り出す上でも一役買っている。
彼の息子ピピンはついにメロヴィング朝を廃して王冠を戴き、カロリング朝を開いた。続いて立ったのがその息子のカール大帝(シャルルマーニュ)である。彼の時代、フランク王国は東方に領土を拡大するとともにローマ教皇から「ローマ皇帝」の冠を与えられ、西ローマ帝国を「復活」させた。
が、フランク王国である以上はゲルマン的な分割相続と無縁ではなく、大帝とその息子ルイの時代には(継承者が一人しかいなかったことで)王国の統一は辛うじて保たれていたのが実状だった。
843年、ルイの死に伴って王国は三分割され、西フランク国、中フランク国(ロタールの国)、東フランク国の3カ国が成立。さらに870年、長兄ロタールの死に伴って西フランク国と東フランク国は中フランク国の北半分をそれぞれに分割し、ここにフランス、ドイツ、イタリアの三国のもととなる版図が決定された。
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