Subject   : ヒ水の戦い

カテゴリー  : 歴史  


 ヒ水の戦い
  後趙の支配力が及ばなくなった陝西地方では?族の苻洪が秦王を名乗り、息子の苻健が長安に入って秦皇帝に即位した。彼らの建てた国は前秦と呼ばれる。

一連の混乱に乗じて、東晋の将軍桓温は成漢を滅亡させて四川を東晋の版図に組み入れ、354年に北伐を行い前秦を攻める。この頃の前秦の勢力は大きいとはいえなかったが撃退した。桓温は一旦兵を引き上げるが、356年に再び北伐を行い一時的にではあるが洛陽を占拠する。これをきっかけとして前秦は勢力を拡大し、360年頃には前燕が華北の東を前秦が西を領有して、前趙・後趙の時と同じように東西での睨み合いの状態となった。

苻健の後を継いだ苻生は横暴で周囲の不満を買い、従弟の苻堅によるクーデターで殺害された。苻堅は優れた人物で、漢人の王猛を登用してその献言に従い、370年に前燕を、371年に甘粛に拠っていた仇池を、376年に山西北部に割拠していた鮮卑拓跋部の代と前涼とをそれぞれ滅ぼして華北を統一した。更に朝鮮半島の高句麗と新羅を朝貢国とし、勢力は大きく奮った。

更に苻堅は、中国の統一を目指して東晋遠征を計画する。王猛は375年に死去しており、臨終の際の遺言が東晋への遠征は止めるようにというものであった。しかし苻堅はこれを聞き入れず、遠征を決行する。

383年、苻堅は100万と号する親征軍を南下させた。これに対する東晋軍は謝安を大都督とした20万で迎え撃った。両軍は?水(現在の安徽省寿県)を挟んで対峙する。前秦軍は一旦、兵を後退させ、東晋軍が河を渡った所で攻撃しようとした。しかし後退させた事で陣形が崩れ、そこを東晋軍に突かれて大混乱に陥り、前秦軍は大敗した(?水の戦い)。この軍隊は様々な民族の混合部隊であり、先の戦いで東晋から捕虜となっていた将軍なども起用されていた。この処置は苻堅の民族平等という志から出た事ではあったが、一旦崩れると歯止めが利かないという弱点を持っていた。

苻堅は残軍を纏めて帰還するが、前秦の国力は一気に衰退し、これを見た配下の諸民族はいっせいに独立を始めた。旧前燕の領土には後燕が、山西では代と西燕、陝西には後秦・西秦が、甘粛には後涼が建国された。更にその後の混乱から陝西に夏、甘粛に北涼・南涼・西涼、山東に南燕などが乱立し、華北は再び騒乱状態となった。



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