Subject : 梁(南朝)
カテゴリー : 歴史
梁(南朝)
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建康に入った蕭衍は、翌502年に和帝より禅譲を受けて梁を建国する。武帝(蕭衍)は斉の創始者・蕭道成の曾祖父の兄弟の子孫という遠い宗族であり、斉の宗室とは同姓ではあったが、王朝を引き継がず革命の形を取った。
武帝は范雲や沈約(『宋書』の編纂者)などの新興の貴族を登用して優秀な人材を集めた。また旧来の官制を改革し、官位の上下を9品から18班に改めている。他にも租税の軽減を行い、それまで使われていた西晋時代以来の泰始律令に代わって、新しい梁律・梁令を制定した。また文化にも理解を示し、この時代は南朝の中でも文化の最盛期と言われている。特に武帝の長子蕭統(昭明太子)によって編纂された『文選』は、この時代のみならず現代まで名著して読み継がれている。このように武帝の治世は革命の名にふさわしいものであった。
しかし治世後半になると仏教に対する傾倒が極端なものとなり、たびたび仏寺に捨身し、その度に1億銭もの巨額によって皇帝の身を「買い戻す」という行為が繰り返された。これらに代表されるような仏教政策は財政の悪化をもたらした。
548年、東魏の武将侯景が梁に対して帰順を求めてきた。朝廷では反対意見が多かったが、武帝は帰順を認め、東魏に対し出兵した。しかしこれは失敗に終わり、武帝は考え直して東魏と和睦しようとしたが、梁の変心を知った侯景は反乱の兵を起こし建康を陥落させ、武帝を餓死に追い込んだ(侯景の乱)。
武帝の後は三男の蕭綱(簡文帝)が継ぐが、侯景は551年に皇族の蕭棟を擁立し、すぐに廃位して自ら帝位に就き、国号を漢とした。
この乱の中で、各地に散らばっていた諸王はそれぞれ自立して自ら皇帝を名乗った。その中でも荊州にいた武帝の八男・蕭繹(元帝)は部下の王僧弁を派遣して侯景を滅ぼし、江陵で即位した。更に蜀(四川)で皇帝を称し、江陵へ進軍してきた弟の蕭紀を552年に撃破する。しかし554年に雍州刺史の蕭?(後梁の宣帝)によって引き込まれた西魏の大軍の前に敗死し、蕭?は江陵に入って皇帝となった。この蕭?の政権は後梁と呼ばれるが、実質は西魏の傀儡政権であった。また蜀一帯は既に西魏によって占領されていた。
元帝が死んだ後、王僧弁とこれも元帝の武将であった陳霸先(後の陳の武帝)は建康において元帝の九男である蕭方智を擁立しようとしたが、東魏に取って代わった北斉がこれに介入して北斉の捕虜となっていた蕭淵明を送り込んできた。王僧弁はこれを受け入れて蕭淵明を擁立しようとするが、陳霸先はこれに反対して蕭方智をそのまま擁立しようとした。この王僧弁と陳霸先の争いは陳霸先の勝利に終わり、蕭方智が擁立されて敬帝となった。
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