Subject   : 陳(南朝)

カテゴリー  : 歴史  


 陳(南朝)
  557年に陳霸先は禅譲を受けて陳を建てる。しかし建国時点ですでに四川の広い地域と江陵を中心とした荊州北部(湖北省)を奪われており、更に国内には反対勢力が残っていた。陳霸先はその反対勢力を制圧することで寿命を使い果たして559年に死去。陳霸先の甥の陳?(文帝)が後を継ぐ。

文帝は武帝の方針を引き継いで国内の反対勢力を制圧し、陳に小康状態をもたらした。566年、文帝が死去すると、文帝の子が後を継ぐが、すぐに文帝の弟の陳?(宣帝)がこれを殺して自ら即位する。宣帝は北周による北斉へとの共同攻撃の誘いに乗って出兵し、淮南を獲得した。

しかし北斉が北周に滅ぼされた後、北周軍に大敗して淮南を再び失う。陳はこのことで大打撃を受け、更に582年に即位した陳叔宝(後主)は政治を顧みず、北朝の隋に征服されるのは時間の問題となった。

● 陳の滅亡
北周に代わった隋の文帝は統一に向けて慎重な足場固めを行った。北方の突厥に対して万里の長城の修復を行い、また長江へと繋がる運河の整備を行って補給路を固めた。更に傀儡国家である後梁を潰して直轄領とした。

準備を終えた文帝は、一衣帯水の言葉の下、588年に次男の楊広(後の煬帝)を主将とする総数51万8千の軍を送り込み、翌589年に建康を陥落させ、宮中の井戸に隠れていた後主を捕らえて陳を滅ぼした。これによって、西晋が滅びてから273年、西晋の短い統一期間を除くと400年近くにも及ぶ長い分裂の時代は終わり、鮮卑系の隋によって統一された。

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 ⇒ 世界史年表

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