Subject   : ユスティニアヌス1世

カテゴリー  : 歴史  


 ユスティニアヌス1世
  ユスティニアヌス1世(ラテン語: Justinianus I (Iustinianus I), 483年 - 565年11月13日または14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。

後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる[2]。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、540年代前半の黒死病(ユスティニアヌスのペスト)が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。

ユスティニアヌスの遺産のより重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。

● ニカの乱以後
532年1月、コンスタンティノポリスの戦車競走の支持者の党派が団結して後にニカの乱の名で知られる暴動を起こした。彼らはトリボニアヌス他2名の大臣の罷免を要求し、更にはユスティニアヌス自身を打倒してアナスタシウス1世の甥である元老院議員ヒュパティオスに替えさせようとした。群衆が市街で暴動を起こしている間、ユスティニアヌスは首都からの逃亡を考えたが、皇后テオドラの叱咤によって街に留まった。続く2日間に彼はベリサリウスとムンドゥスの二人の将軍に容赦ない鎮圧を命じた。

532年6月にサーサーン朝ペルシアとの間に「永久平和条約」を結んで東方国境を安定させると、翌533年、ベリサリウス将軍を北アフリカへ派遣してゲルマン人国家ヴァンダル王国を征服させた。
535年、ゲルマン人国家東ゴート王国の内紛に乗じてベリサリウスをイタリアへ派遣した。翌年末にローマを奪回したものの、東ゴート側の強固な抵抗に遭い戦争は長期化する。

537年12月、ニカの乱で焼失したハギア・ソフィア大聖堂(現アヤソフィア博物館)の再建が完了した。ビザンティン建築の最高峰として、現代まで伝えられることになる。完成時の奉献式で、祭壇に立って手をさしのべ、古代イスラエル王国のソロモン王の大神殿を凌駕する聖堂を建てたという思いから「我にかかる事業をなさせ給うた神に栄光あれ! ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられる[22]。
540年にベリサリウスが東ゴート王国の首都ラヴェンナを攻略し、東ゴート王ウィティギスを捕らえてコンスタンティノポリスへ帰還したものの、イタリア半島では依然として東ゴートの残党が勢力を保っていた。同年にサーサーン朝との抗争を再開し、帝国の東西に敵を抱えることになる。
541年、共和制ローマ以来の執政官制度を廃止する。542年、黒死病が大流行し多くの死者が出て政府も機能不全に陥る(ユスティニアヌスのペスト)。ユスティニアヌスも感染したが回復している。これにより帝国の人的資源は大打撃を受け、ユスティニアヌスのローマ帝国再興事業は衰退に向かうことになる。548年に皇后テオドラが、おそらく癌によって比較的若くして死去した。

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 ⇒ 世界史年表

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