Subject   : 突厥

カテゴリー  : 歴史  


 突厥
  突厥は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族[4]で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事した[5]が、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。

訥都六設(ナテュルク・シャド)の孫にあたる吐務は、大葉護(だいヤブグ)と号し、柔然の臣下であった。彼には2人の子がおり、長男は土門(ブミン)、次男は室點蜜(イステミ)といった。吐務が死ぬと土門が後を継いだ。5世紀後半は柔然隷属下の奴役部族が絶え間なく逃亡・反抗を繰り返していたが、487年に高車諸部族10万人が30年に及ぶ大規模な反乱を起こすと、力が衰えた柔然の突厥部への統制は緩和された。制約を脱すると畜産品や鍛鉄による手工芸品を生産して、西魏や西域との貿易を行い、6世紀初頭には西魏との間に正式な通商が結ばれた。

西魏の大統12年(546年)、北の鉄勒が柔然を攻撃してきたので、土門は突厥部を率いて迎撃し、5万余落を降伏させた。土門はこれに乗じて柔然に求婚した。しかし、柔然可汗の阿那?(在位:520年 - 552年)は突厥が鍛鉄奴隷の身分なので激怒し、使者を送って罵った。土門はその使者を斬るなり柔然の支配から離脱し、西魏に遣使を送って朝貢し、西魏に求婚した。大統17年(551年)6月、土門は西魏の長楽公主を娶って妻とした。この年、西魏の文帝が崩御したので、土門は遣使を送って弔問し、馬200匹を贈った。廃帝元年(552年)1月、土門は柔然を撃ち、懐荒の北にて大破した。阿那?は自殺し、その子の菴羅辰は北斉へ逃れ、柔然の余衆は阿那?の叔父であるケ叔子を立てて可汗とした。土門は遂に自ら伊利可汗と号して独立し、突厥可汗国を建てた。

● 最盛期
伊利可汗が亡くなると、子の乙息記可汗(在位:552年 - 553年)が継いだが、まもなく亡くなったため、その弟である木汗可汗(ムカン・カガン、在位:553年 - 572年)が後を継いだ。木汗可汗は即位するなり柔然を撃ち滅ぼし、柔然可汗のケ叔子は西魏に亡命した。木汗可汗はさらに西の??(?怛、エフタル)を破り、東の契丹を敗走させ、北の契骨(キルギズ)を併合し、諸外国を次々と征服していった。これにより突厥の版図は、東が遼海(日本海?)以西、西が西海(アラル海)に至り、南は沙漠(ゴビ砂漠)以北、北は北海(バイカル湖)に至る大帝国となった。次に木汗可汗は西魏にケ叔子の誅殺を請願した。西魏の宇文泰はこれを許可し、ケ叔子を青門外で殺した。こうして完全に柔然を滅ぼした木汗可汗は、中国の北朝と好を結ぶようになり、互いに姻戚関係となる。初めは北周と北斉の両方から求婚されていたが、木汗可汗は北周を選び、保定3年(563年)から4年(564年)にかけての北斉討伐に参加した。この戦いでは何の成果も上がらなかったが、その後も突厥と北周の関係は良好であった。 最盛期 しかし、次の他鉢可汗(在位:572年 - 581年)の時代になると、577年に滅んだ北斉の残党と組むようになり、たびたび北周の北辺を侵すようになった。北周は何度か突厥と交渉し、大象2年(580年)になってようやく北斉の残党である高紹義を連行することに成功した。

<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 >
 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る]