Subject : プラティハーラ朝(Pratihara)
カテゴリー : 歴史 > インドの歴史
プラティハーラ朝(Pratihara)
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プラティハーラ朝は、ラジプターナ (Rajiputana) 地方に定着して数王国を形成したグルジャラ族に属し、6世紀中頃に出たハリチャンドラ (Harichandra) というバラモン出身の王を祖とし、数系統に分かれたプラティハーラ家のうちの分家の一つであった。
この家系から出たナーガパタ1世 (NagabhataT) は、現在のパキスタン南部にあたるシンド地方を征服したアラブ勢力の進出を阻止し、グルジャラ族の指導権を得た。ハルシャ・ヴァルダナののちのガンジス川流域の混乱に乗じて勢力を拡大し、ナーガパタ1世の兄弟の孫にあたるヴィツアラージャ(Vatsaraja ヴァトサラージャ、在位778年頃 - ?)は、遠征軍をベンガル方面に進め、パーラ朝の王ダルマパーラと戦って、領土を東方に広げたが、ラーシュトラクータ朝のドウルヴァと戦って敗れた。
ナーガパタ2世(在位805年 - 833年頃)の時代に、王朝は勢力を挽回し、その領域を東西に拡大し、パーラ朝を破って、その保護下にあった北インドの中心都市カナウジを占領して首都としたが、ラーシュトラクータ朝のゴーヴィンダ3世と戦って敗れた。王朝を再興したのはナーガパタ2世の孫ボージャ1世(BhojaTMihira, 在位836年 - 885年頃)である。836年頃、カナウジで即位式をあげ、征服事業を開始し、北はヒマラヤ山麓、南はナルマダー川、東はベンガルのパーラ朝の領域を除いて北インドの大部分を支配した。また、ラーシュトラクータ朝にナルマダー河畔で辛勝して、海上交易の拠点であり北インドの商品の西アジアへの出入り口であったグジャラートを獲得した。当時の様子について、アラブ人旅行者の述べるところでは、インドで最も優秀な騎兵軍を持っていたという。また、一度は敗れたパーラ朝に対し、デーヴァパーラがなくなって弱体化したところを攻めて、東方へも領域を拡大し、北インドの大部分を支配するに至った。
この繁栄は、息子のマヘンドラパーラ1世(MahendrapalaT, 在位885年頃 - 909年)の治世まで維持された。10世紀前半にラーシュトラクータ朝に攻撃され、グジャラートを失い衰退した。10世紀は、マールワのパラマーラ朝やチャンデーラ朝など支配下にあった諸侯が次々と独立の動きを見せ、分裂弱体化の一途をたどり、1018年にガズニ朝のスルタン、マフムードの攻撃を受けて滅亡した。
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