Subject   : アッバース朝

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 アッバース朝
 8世紀半ば、ウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家を指導者として行われた革命によって成立した政権。ホラーサーンを王朝発祥の基盤とする東向きの帝国で、イラクのバグダードを首都とした。アンダルスではウマイヤ朝の残党が後ウマイヤ朝を建設してアッバース朝の支配から離れたが、それを除いた帝国のほとんどを継承し、さらにタラス河畔の戦いで唐軍を撃退すると中央アジア、インドまで勢力を広げてイスラム国家としては過去最大の版図を実現した。

南イラクに支持基盤を持っていたシーア派は、ウマイヤ朝カリフを認めず対立する。ムハンマドの叔父アッバースの子孫イブラーヒムは、東イランでウマイヤ朝に反旗を翻した。
 750年、ダマスカスに侵攻してウマイヤ軍朝を滅ぼし、イブラーヒムの弟サッファーフがカリフとなりアッバース朝が始まった。
 751年、高仙芝が率いる唐軍とタラス河畔(現カザフスタン)で戦い撃破した。この戦いで捕虜になった中国人から紙の製法がイスラム圏に伝えられた。
 第2代カリフ:マンスール(754〜775)は、新しい都バグダードを建設する。アッバース朝は、千一夜物語(アラビアン・ナイト)にも登場するハールーン・アッラシード(786〜809)の時が最盛期だった。

王朝の初期にはアッバース革命に参加したイランのペルシア人たちが政権において官僚として活躍し、地方でもアラブ人の絶対支配体制が解消されてムスリムの原則的な平等が実現した。このため、非アラブ人はイスラムに改宗することによる税制上のメリットが得られるようになり、かえってアラブ化・イスラム化が進むことになる。

しかし、9世紀に入ると地方が次第に自立し始め、早くも統一が失われていった。10世紀には北アフリカで興ったファーティマ朝がシーア派を奉じ、アッバース朝に対抗してカリフを称した。さらにアンダルスの後ウマイヤ朝もファーティマ朝との対抗上カリフを自称し、イスラム世界に3人のカリフが並存する本格的な分裂時代に入った。

また、バグダードのアッバース朝中央ではマムルーク(奴隷身分出身の軍人)がカリフにかわって実権を握り、アッバース朝の支配は弱体化した。946年にはイランのシーア派王朝ブワイフ朝がバグダードの支配権を握ってカリフ政権は形骸化し、1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝がカリフからスルターンの称号を与えられて世俗の支配権を譲られ、カリフは名目的な支配者となっていった。



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