Subject   : 後ウマイヤ朝

カテゴリー  : 歴史  > 


 後ウマイヤ朝
 コルドバのメスキータ  750年、ウマイヤ朝がアッバース朝に倒されると、ウマイヤ家のアブド・アッラフマーン1世がモロッコ経由でイベリア半島に逃れてきた。そして、756年コルドバでアミールを宣言し、後ウマイヤ朝を興す。778年にはフランク王カール・マルテルの進入を撃退、この戦いがローランの歌のベースになった。

 929年、第8代アブド・アッラーフ3世は自らカリフを名乗り、北部のカスティリャ、アラゴンなどのキリスト教国を圧倒した。また、ファテーィマ朝と北アフリカ領有権を争うなど、黄金時代を築いた。

 後ウマィヤ朝には東方から多くの文化人が移住し、ヨーロッパにサラセン文化を伝えた。首都コルドバは、バグダッドやカイロとともに文化の中心地で、メスキータと呼ばれる大モスクが建設された。コルドバ゙で開花したイスラム文化は、ラテン語に翻訳されてイタリアに伝わり、ルネッサンスに大きな影響を与えた。

● レコンキスタ
 西ゴート王国滅亡後、西ゴート貴族ペラーヨ(Pelayo)は、カンタブリア山脈に逃れた。722年、コバドンガの戦い(Covadonga)で初めてイスラム軍を破り、アストゥリアス王国を建設する。3代目のアルフォンソ2世の時、12使徒の一人ヤコブの墓がサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見され、レコンキスタの機運が高まった。そして、首都をオビエドに移し、ドゥエロ川流域に進出してレコンキスタが開始された。  次のガルシア1世は首都をレオンに移し、レオン王国が誕生する。レオン王は、ナバーラ王やカスティーリャ伯の支援を得て、後ウマイア朝とドゥエロ川をめぐる激しい戦いを繰り広げた。しかし、常に劣勢で、一時は後ウマイア朝のアル・マンスールに国内を蹂躙される危機的な状況に陥った。

● 小王国乱立
 後ウマイア朝の崩壊は、大きな転換点となった。アル・アンダルスは、セビリア、トレド、サラゴサ、グラナダ、バレンシアなどの小王国に分裂した。王国間の紛争は絶えず、イスラムの結束は弱まり、キリスト教国に対する軍事的優位も失われていった。
 1085年、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世はトレドを攻略した。また、彼の臣下エル・シドは、1094年にバレンシアを占領する。エル・シドとは、アラビア語の「わが主」という意味で、ムーア人が彼の勇敢さを讃えて付けた名前である。本名はロドリーゴ。トレドの陥落は、イスラム諸国に深刻な打撃を与え、北アフリカのムラービト朝のユースフ・ブン・ターシュフィーンに援助を求めた。
アルファフェリア宮殿(サラゴサ)  1086年、ユースフはイベリア半島に渡りサグラハスの戦いでアルフォンソ6世を破った。そして、1102年までにマグレブ、セビリア、グラナダ、バレンシア王国を征服、北アフリカからアル・アンダルスに至る大帝国を建設した。しかし1147年、イスラム改革を目指すムワッヒド軍に敗れてムラービト朝は滅亡した。アル・アンダルスは再びグラナダ、マラガ、バレンシアなどの小王国に分立した。
 1150年、北アフリカを統一したムワッヒド朝は、イベリア半島に進出し、アル・アンダルスの大部分を征服する。しかしその支配も長続きせず、1212年、ラス・ナバス・デ・トロサの戦いで、カスティリャ、アラゴン、ナバラの連合軍に破れアル・アンダルスから撤退した。

<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 >
 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る]