Subject : カロリング朝
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カロリング朝
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フランク王国2番目の王朝。宮宰ピピンがメロヴィング朝を倒して開いた。
フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめ大ピピンはフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、中ピピンにおいてはフランク王国全体の宮宰を務め、小ピピンは至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。
751年から987年までフランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。
なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。
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カロリング家はローマ教皇との接近を強め、カトリックの権威を通じて自らの国王即位を正統化しようとした。当時はローマ教皇もビザンツ皇帝との対立を深めていた時期で、新たな政治的保護者を求めていた。こうして両者の思惑も一致し、751年にローマ教皇の支持下でピピン3世(小ピピン)がフランク国王となった。これによってカロリング朝が創始された。756年にはピピンが北イタリアのランゴバルド王国に遠征し、征服したラヴェンナ地方をローマ教皇に献上することでその連携を深めた。
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ピピンの息子で後継者となったカール大帝(シャルルマーニュ)とその弟カールマンはフランク族の習慣に従って国土を分割した形で統治を開始したが、カールマンは771年に早世したため、カールは単独の国王として長く君臨し、精力的に各地に遠征、ランゴバルド王国を滅ぼし、ザクセン人の強硬な抵抗を屈服させ、キリスト教を受容させるなど、彼の治世にフランク王国は最も隆盛を誇り、その版図は最大に達した。このような功績によってカール大帝は「ヨーロッパの父」、「最初のヨーロッパ人」と呼ばれた。
- ● カール大帝
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フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン、714年 - 768年9月28日)の子で、カール1世ともいう。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早逝したため、以後43年間、単独の国王として長く君臨した。
800年のクリスマスに、カール大帝はローマ教皇レオ3世より西ローマ帝国皇帝の称号を得た。
カール大帝は、西ローマ皇帝(皇帝在位:800年 - 814年)を称したが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。
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