Subject   : キエフ大公国

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 キエフ大公国
 キエフ大公国は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシで、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。

ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治された。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。国民国家史観を中心とした研究史においては、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされる。

● スヴャトスラフの戦い
オレグ、イーゴリ1世、そしてその寡婦オリガは周囲の東スラヴ諸民族を次々に支配下に収めて勢力を拡大。また、南に位置する大国東ローマ帝国とも数度戦い、帝国の首都ツァリグラード(ミクラガルド)を攻撃した(ルーシ・ビザンツ戦争)。いずれの戦いも当時マケドニア王朝支配下で国力を上昇させていた東ローマに撃退されているが、これらの接触を通じて帝国の首都コンスタンティノポリスとキエフの間には商人が行き来し、次第に東ローマの文化やキリスト教がルーシに流れ込むようになっていく。オリガに至っては東ローマ皇帝コンスタンティノス7世を代父としてキリスト教の洗礼を受けたと言われている。

 オリガの息子スヴャトスラフ1世の時代、キエフ大公国は大きく勢力を伸ばす。965年にはハザール・カン国に大打撃を与え、ハザールに貢納していたヴォルガ川上流域のヴャチチ族を服属させた。さらにスヴャトスラフは南西へ転戦して、968年にはブルガリア帝国に侵攻。一度は撤退するものの、971年に再度ブルガリアへ遠征してこれを撃破。そのまま東ローマ帝国へ兵を進め、帝国のヨーロッパ側領土を明渡すように要求するまでに至った。しかし、皇帝ヨハネス1世ツィミスケス率いる重装騎兵軍団と秘密兵器「ギリシアの火」を装備した東ローマ艦隊に敗れ、遠征は失敗に終わった。スヴャトスラフは、二度とバルカン半島へ現れないという条件の和議を結んで帰国する途中の972年、ドニエプル川の浅瀬でペチェネグ人に襲われ戦死した。

● ウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公
スヴャトスラフの死後、長男のヤロポルク1世が後を継いだが、980年に弟のウラジーミルに追われ、ウラジーミルが支配者(ウラジーミル1世)となった(ウラジーミルはスウェーデンでヴァリャーグたちを従士団として雇用し、後にヴァラング隊として東ローマ帝国に贈った)。ウラジーミルは領土を大きく広げ、キエフ大公国はその最盛期を迎えた。貴族の反乱に悩まされていた東ローマ皇帝バシレイオス2世へ援軍を派遣する見返りとしてバシレイオスの妹アンナを妃に迎え、キリスト教を国教として導入した。これによってルーシはキリスト教世界の一員となり、東ローマ皇帝と縁戚関係を結んだことによってキエフ大公国の国際的地位も上昇した。それまでは北欧との関係も深く、ノルマン人の植民の奨励など親スカンディナヴィア政策を行っていたが、キリスト教正教会を国教としたことで東スラヴにおけるヴァリャーグ人の時代が終り、キリスト教の時代が始まったと言える。

なおこの時、東ローマ帝国からキリスト教を導入した事により、キエフ府主教はコンスタンディヌーポリ総主教庁の影響下に置かれる事となった。これは直接的にはウクライナ正教会の礎となり、ロシア正教会の母体ともなった。

1015年のウラジーミルの死後、後継を巡って争いが起きる。長男のスヴャトポルク1世は機先を制してボリスとグレブら弟達を殺害し、ポーランド王ボレスワフ1世を後盾として一時キエフ大公の座につくが、ノヴゴロドにいた別の弟ヤロスラフが大軍を率いてキエフを攻略し、スヴャトポルクを追放して大公となった(ヤロスラフ1世)。当初は弟のムスチスラフの反乱などに悩まされたヤロスラフだが、やがて弟と和解し、ペチェネグ人を討ち、ポーランド王国から奪われていたヴォルイニ地方を奪い返した。またスウェーデンやハンガリー王国などと縁戚関係を結ぶなど活発な外交を展開した。なお、1043年には東ローマ帝国と対立し、コンスタンティノポリスへ遠征を行ったが、これには失敗している。これがキエフ大公国の最後の対東ローマ遠征となった。

内政面でも、法典を整備し、キエフの街を拡張し、教会を建設するなど文化の振興にも尽くした。これにより、ヤロスラフは「賢公」と呼ばれている。

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 ⇒ 世界史年表

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