Subject   : 黄巣の乱

カテゴリー  : 歴史  > 


 黄巣の乱(875〜884)
中国、唐末約10年(875〜884)にわたる農民大反乱。唐朝は9世紀以後、牛・李(り)両派の党争でその官僚支配を弱め、宦官(かんがん)層がこの党争を利して軍事力を背景に実権を握り、地方藩鎮(はんちん)は中央勢力を動かして自立に努めた。憲宗の武力による対藩鎮強硬策から、歳入不足は恒常化し、賦税や塩、茶の専売による収奪が激しくなり、富商や土豪は土地を集積し、政府の特権商人や藩鎮の将校、軍人、下級役人になって国家の収奪を免れた。他方、中小の農民は窮乏し、新興の地主層の下で小作人、農業労働者となり、また流民化して群盗となった。とくに専売税の増加で塩、茶が高価になると、塩賊、茶賊とよばれた闇の塩、茶の商人団が現れ、なかでも揚子江(ようすこう)を挟んで南北に活動した江賊がもっとも大規模であった。 王仙芝(おうせんし)、黄巣はいずれも山東の塩賊で、黄巣は読書人でしばしば進士にあげられたが及第できず、貴族官僚支配に反感をもっていたという。裘甫(きゅうほ)、(ほうくん)の乱が相次ぎ、年少の僖宗(きそう)が宦官に擁立されて世情が動揺し、さらに飢饉(ききん)で窮迫した農民が群盗化して各地に蜂起(ほうき)した。この情勢下に反乱した王仙芝、黄巣らは、争って参加する民衆とともに流賊化してたちまち山東10余州を寇掠(こうりゃく)し、強大な下克上的風潮を醸成した。王仙芝の死後、一時、唐朝軍に敗れて福建から広州に退き、ここから風土病を避けて北上し、黄巣は自ら天補平均(均平)大将軍と称したというから、均平な小農民の世界を理想としていたのであろう。彼は王仙芝の残党をもあわせて880年洛陽(らくよう)、長安両都を陥れ、国を建てて大斉と号し、年号を金統と称したが、財政基盤を欠き、統治の能力、経験も乏しかった。地主層による郷村防衛軍や、唐朝の召用した突厥(とっけつ)沙陀(さだ)族の李克用(りこくよう)の精鋭な騎馬軍の攻撃に敗れ、有力部将朱温の寝返りもあり、長安から退却、東走して山東の泰山付近で敗死した。黄巣の乱は唐の滅亡、中国の貴族官僚支配の崩壊の最大の契機となった。唐朝に降った朱温はただちに黄巣討滅に活躍し、全忠の名を賜り、直接唐を滅ぼして五代の最初の王朝である後梁(こうりょう)を創建した。

 

<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る]