Subject : セルジューク朝トルコ
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セルジューク朝トルコ(セルジュク朝:1038 年 - 1157 年 )
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11〜12世紀に西アジアに栄えたトルコ系の王朝。
オグーズ=トルクレリと呼ばれる古トルコ族の一分派セルジューク(セルチュク)族が建てた王朝で,その名は始祖セルジュークの名にちなむ。
10世紀の末,この部族は族長セルジュークに率いられて,アラル海北方から南下し,シル=ダリヤ河口のジェンドに移住してイスラームに改宗した。
そのころ,ソグディアナ地方にはイラン系のサーマーン朝がトルコ系のカラ=ハン朝に苦しめられていたが,セルジュークはサーマーン朝を助けた。
しかしサーマーン朝が打倒されると,カラ=ハン朝と結び,ガズナ朝とも同盟して力を伸ばす。
その子ヤブグー=イスライールはカラハン朝のアリ=テギンに従ってソグディアナの征服に協力し,やがてアリが没すると独立した。
その後その甥トゥグリル=ベク(1037〜63)が族長となり,1037年,ホラサーンの要衝,シャプールに無血入城した。
やがてガズナ朝はセルジューク朝を討つため進軍してきたが,トゥグリル=ベクは1040年3月,メルブ南方約65kmのダンダーナカーンで迎撃し,これに決定的な勝利を収めて撃退した。
その結果,セルジューク朝は全ホラサーンの支配権を握った。
その後もトゥグリル=ベクはジュルジャーン・タバリスタン・コヒスターン・ジバールなどを領有し,さらにホラズム・アゼルバイジャン・イラクなどを征服した。
トゥグリルはしだいに南下してイラン地方を支配し,レイやイスパハンに都を置き,公正な支配者として名声が高くなった。
- ● 政治・経済
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セルジューク朝の官僚機構はアラブ・イラン的,軍事組織はトルコ的で,軍事的封建制国家を形成した。官僚組織の組織者は宰相ニザーム=アルムルクで,概要はその著『シャーサト・ナーマ(政治の書)』に示されている。それによるとこの時代にワジール(大臣)は前代より強い権威をもち,財政・行政・司法・宗務の各ディーワーンを掌握した。地方行政はアミール(地方知事)の下に中央の行政組織を小規模にした組織が形成された。これらの上に君臨したのがスルタンで,それは宗教上の名目的な権威者であるカリフに対し,実質上かつ軍事上の権威者であった。セルジューク朝の強さは軍事力によるものであったから,軍団が強大なときは王朝は版図を拡大して繁栄し,軍団が弱体化すると衰退した。軍団はスルタンに直属するものと,アミールに所属するものがあり,いざ戦闘開始のときには,スルタンから各アミールに命令が下り,軍団を形成した。アミールには軍団維持のためにイクターと呼ばれる封土が分与された。アミールはイクターから税を徴収したが,住民の身柄・私財・妻子を自由にすることはできなかった。軍隊の構成者は初期には遊牧のトゥルクメンだったが,やがてトルコ人・チェルケス人・スラブ人・ギリシア人・クルド人らいわゆる白人奴隷マムルークが中心となり,アミールの大部分もマムルーク出身者によって占められた。彼らは地方総督(アミール)・軍団の司令官・王子の養育者(アター=ベク)となり大イクターの保有者となった。彼らはマリク=シャー没後の混乱・内紛に乗じ,イクタの世襲・独立化の傾向を強め,セルジューク朝分裂の要因となった。
<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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