Subject : 西夏
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西夏
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中国の西北地域(いまの甘粛(かんしゅく)・オルドス地方)に、1032年からチンギス・ハンに滅ぼされる1227年まで、ほぼ200年間続いたタングート人の国家。李継遷(りけいせん)、徳明(とくめい)を経て、李元昊(りげんこう)の時代に大夏(たいか)皇帝と称し、宋(そう)の支配から完全に離脱して、当時の夏州、銀州など10数州にわたる地域を領有し、東は宋、北は契丹(きったん)(遼(りょう))、西はウイグル、南はチベットに接する西夏王国が建設された。
公用語を西夏語、公用文字を西夏文字と定めた。西夏文字は1036年に公布され、以後400年余り使われた。漢字を擬してつくられ、独特の形態と複雑な構成法をもっていて、全体で6000を大きく上回る文字がある。いまは大部分の発音と意味がわかっている。刻字司(印刷局)は、文字普及のため、単語集や音韻組織を整理した韻書など多くの書物を刊行した。
西夏は東西交通の要路にあたり、貿易の利益を独占した。国土は農耕地域と遊牧地域に大別され、牧畜と農耕を主要産業として、塩池の産塩も重要産物の一つであった。建国当初は宋の官制を模倣したが、しだいに独自の体制をつくりあげた。西夏語で書かれた法典『天盛旧改新定禁令』(1149)、『(光定壬申(じんしん))新法』(1212)、『猪年(ちょねん)新法』(1215)が残っている。
官職は、文官、武官ともに上司、中司、下司の3階級に分けられた。郡県制度ははっきりしないが、4府、11州、7郡、6県、8鎮(ちん)の名が西夏文の記録にある。一般には、ボン教と通じる土着宗教が浸透していたが、上層部では儒教が崇(あが)められ、『論語』『孟子(もうし)』なども西夏語に訳されている。仏教も栄え、政府は、和尚(おしょう)功徳司、出家功徳司といった役所を設けて、仏教の隆盛を援助した。寺院や塔が各地に建立され、チベット風の仏教美術絵画がハラ・ホトや敦煌(とんこう)で発見されている。多種類の経典が漢訳やチベット訳から西夏語に翻訳され、禅籍も『禅源諸詮(せん)集都序』をはじめ、少なからず西夏文になっている。文学では『新集金砕掌置文(きんすいしょうちぶん)』『新集錦合道理』などの創作が残っている。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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