Subject : 第2回十字軍
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第2回十字軍
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当時イスラム世界はバグダードのアッバース朝(スンニ派)とカイロのファーティマ朝(シーア派)に分裂していた。アッバース朝のカリフは政治的な力はなく、セルジューク朝のスルタンが実権を握っていた。十字軍がやってくる直前の1092年にスルタンが死去し、セルジューク朝はルーム朝、シリア朝、イラン朝に分裂して弱体化していた。しかし、十字軍の残虐さに直面すると、イスラム側にもフランク人を共通の敵とみなす一体感が生まれてきた。セルジューク朝のモスル(イラク)の太守だったザンギー(Zangi)は、ザンギー朝を起こし反攻(ジハード)を開始した。
1144年、ザンギーはエデッサ伯国を攻めこれを落とした。これが第2回十字軍の原因となった。第2回十字軍はフランス国王ルイ7世とドイツ皇帝コンラート3世が参加した。1147年、遠征隊は出発したが、ドイツ軍は小アジアを行軍中にルームセルジューク朝軍に襲われほぼ全滅、一部がエルサレムに到着した。海岸線をたどったフランス軍もルームセルジューク朝軍に襲われ大打撃を受けながらエルサレムに到着した。
エルサレムに終結した十字軍は、エルサレム国王ボードゥアン3世とともにダマスカスを攻めた。1148年にダマスカスを包囲したが落とせず、僅か4日後に退却した。エルサレムに戻った十字軍は何の成果もなく解散した。
この十字軍は、ザンギーと対立していたダマスクスとを結びつけることになり、分裂していたイスラム勢力を結集させる結果となった。
1146年、ザンギーは突然暗殺された。その後を継いだのが息子のヌール・アッディーンである。彼はシリアを統一してイスラム勢力を結集した。エルサレム王国は弱体化したエジプトのファーティマ朝に矛先を向けた。ヌールッディーンは部下のシールクーフをエジプトに派遣、1169年にエルサレム王国軍を破ってカイロに入城した。しかし、シールクーフは2ヵ月後に急死し、甥のサラーフッディーン(サラディン:Saladin)が宰相に就任し全権を掌握した。1171年、ファーティマ朝の第14代カリフが死去すると、サラディンが君主となりアイユーブ朝を開いた。彼はパレスチナからキリスト教勢力を駆逐する執念に燃えた。
1187年、サラディンは十字軍に対する聖戦を呼びかけ、3万の大軍を率いて出撃、ガリラヤ湖北西のティベリアを攻撃した。これはおとり作戦だった。これに引っかかったエルサレム王は十字軍国家や宗教騎士団などから2万の軍を出撃させた。先を急ぐ十字軍は水もないまま一日中行軍し、八ッティンの丘で野営した。真夏の日が昇ると丘はイスラム軍に包囲されており、十字軍は壊滅的な敗北を喫した(ハッティンの戦い:Hattin)。
勢いに乗るイスラム軍はアッコやベイルートなどの沿岸都市を次々と征服し、ついにエルサレムを奪回した。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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