Subject : ロベルト・ギスカルド
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ロベルト・ギスカルド
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北アフリカを制圧したイスラム帝国は711年にスペインに進出、827年には東ローマ帝国が支配するシチリアを襲った。シチリアの町は次々と制圧され、877年にシラクサが陥落してイスラムの全島支配が始まった。首都はパレルモ。イスラムの支配は宗教に関して寛容で、税金さえ払えば今までどおりキリスト教を信仰できた。また、高いイスラム文化が持ち込まれ、シチリアは発展した。
イスラムの支配は200年続いた。シチリアをイスラム教徒から奪回したのがノルマン人のロベルト・ギスカルド(Ruberto Guiscardo)である。彼は、フランスのノルマンディに生まれ、南イタリアに単身渡ってきて傭兵になった。そして、徐々に力をつけてノルマン人のリーダになり、瞬く間に南イタリアを支配下に治めた。1071年、弟のルッジェーロ1世をシチリアに派遣し征服した。
風雲児ロベルトはローマ教皇と対立して何度も破門された。しかし、カノッサの屈辱で有名な教皇グレゴリウスを、ドイツ皇帝ハインリヒ4世の攻撃から助けている。1085年、東ローマ帝国征服を目指しギリシアに遠征するが、熱病にかかり亡くなった。
ロベルト・ギスカルド(アプーリア・カラブリア・シチリア公、在位1057-85)と『カノッサの屈辱(1077)』でローマ教皇に屈した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(1050-1106)とは、同時代人でローマ教皇領を挟んで南と北の一大勢力の中心人物だった。
ただし、成り上がり者の狡猾ロベルトが南イタリアを支配下に置いて“世界の恐怖”とも呼ばれて戦えば連戦連勝のころ、父王の世継に指名されていたハインリヒは、まだほんの10才前の血筋の良い王子だった。
この二人はローマ教皇から共に何度か『破門』されている。が、その対処の仕方は極めて対照的。ハインリヒの方は『カノッサの屈辱』の通り。
ロベルトの方は『カノッサの屈辱』の直前にも直後にも『破門』宣告された。ところが、ロベルトはこれには全くお構いなしで、せっせと征服活動に励んだ。
シチリア王国カノッサ〜ローマ〜メルフィ〜コンスタンチノープル実力だけでのし上がったロベルトは、現実を見据えて日々戦っていたのです。中世の真っ只中にも、こういう人物はいたのですね。
このロベルトを助けたのが、一番遅れてノルマンディーからやってきた実の末弟ルッジェーロ(後のシチリア大伯ルッジェーロ1世)。ルッジェーロも、兄に負けず劣らず軍事・政治に優れていた。
このオートヴィル兄弟の末弟の代で、中世ヨーロッパの先進国・シチリア王国がつくられ、中世騎士道のロマンチックな冒険物語は終わりです。この後は、りっぱな王族の物語に発展します。
南イタリアの中央部の内陸の町メルフィを拠点に勢力を広げていたノルマンの雄ロベルト・ギスカルドは、1073年にはアマルフィを、『カノッサの屈辱』の1077年にはサレルノを支配下に置いた。いずれもビザンチン帝国の息のかかった都市。
そして、そのビザンチン勢力を最後はアドリア海の港町バーリに追い詰め、ついにはイタリア半島から駆逐してしまった。
しかし、“世界の恐怖”とも呼ばれたロベルト・ギスカルドの征服欲はこれだけでは納まらなかった。シチリア・北アフリカ方面のイスラム勢力への侵攻は実弟ルッジェーロに任せ、自身は何とコンスタンティノープルの『ビザンチン帝国征服』という大野望を抱くようになる。
ローマ街道ドイツ王ハインリヒ4世がイタリアに侵攻したのと同じ1081年、ロベルト・ギスカルドはバーリからアドリア海を渡って対岸のドラッツォに上陸を開始する。ここに上陸してしまえば、古代ローマ時代のイグナティア街道がギリシャを横断してコンスタンティノープルまで一直線で続いていた。
ヴェネツィアから見た アドリア海 が、ここでノルマン軍の前に立ちはだかったのが、ヴェネツィア海軍。これは、ヴェネツィアの初めての本格的な戦い(ドラッツォ攻防戦)だった。
ヴェネツィアからオリエントまでの安全な海上通行を国の死活問題と考える海の共和国ヴェネツィアにとって、アドリア海の出入口の両岸を同一の敵対勢力に押さえられることは最も好ましくないことだった。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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世界史年表
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