Subject   : 金(1115〜1234)

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 金(1115〜1234)
中国の王朝(1115〜1234)。いわゆる征服王朝の一つ。金王朝を建てた女真(じょしん)族は、女直(じょちょく)ともよばれ、渤海(ぼっかい)国時代には渤海の被支配民として、中国東北地区の松花江、牡丹江(ぼたんこう)、黒竜江(アムール川)下流域、沿海州(現沿海地方)に分布していたツングース系の民族である。926年、渤海国が遼(りょう)に滅ぼされると、その国の王族や貴族、豪族は遼陽やその南に移され、係遼籍(けいりょうせき)女真、熟(じゅく)女真などとよばれ、遼国の直接支配を受けた。しかし、そのほかの女真人は現住地で生活を営みながら遼の支配を受けた。彼らは生(せい)女真、生女直などとよばれた。金王朝を建設したのは生女直のなかの完顔(ワンヤン)といわれる一部族である。

煕宗の時代、金では強硬派が政権をとり、宋との間に戦いが起きた。宋の岳飛(がくひ)らはよく戦ったが、1142年、金を君、宋を臣とし、淮水(わいすい)と大散関を結ぶ線を国境として和議が結ばれた。このため金は淮水以北を直接統治することとなり、多数の女真人がその地に移住させられた。煕宗の時代には諸制度が中国式に改められた。官制では勃極烈制が廃止され、これにかわり尚書、門下、中書の三省が最高の政務執行機関として登場した。そしてこの三省を統領する役職として領三省事があった。領三省事にはそれまで勃極烈であった人が任命されている。煕宗の時代は女真の旧慣は払拭(ふっしょく)されておらず、金国が中国的専制国家に成長する過渡期であった。

煕宗は治世の中ごろから精神に障害をきたし、人望を失っていた。海陵王は1149年煕宗を殺して帝位を奪った。そして宗室や重臣を殺し、門下省、中書省を廃止し、政務執行機関を尚書省のみとした。また地方行政組織も改変し、中央の官僚を節度使とし、路に派遣して長官とし、中央集権的専制国家を完成させた。また首都を上京会寧から燕京に移し、中都とした。海陵王は南宋を滅ぼして中国を統一しようとし、61年南征軍をおこしたが、南征の途中で世宗のクーデターが起き、不満をもつ部下に殺され、世宗の治世となった。

世宗は渤海の貴族や豪族の支持を受け、遼陽で即位し、1162年燕京に遷都し、契丹(きったん)の反乱を鎮定し、宋と和議を結んだ。世宗は女真の伝統文化の維持に努め、64年女真文字により漢籍を翻訳し、71年女真進士科を設け、女真語により試験をして女真進士を登用し、京師や地方に女真語による学校を設けた。また華北に移住した猛安・謀克戸が貧窮していたので、80年土地調査を行い、女真人に土地を再分配したが一時的効果しかなかった。

世宗の後を継いだ章宗は金の皇帝中随一の文化人で、豪奢(ごうしゃ)な生活にふけった。官庁の経費も膨張し、そのうえモンゴル系遊牧民の侵入を防ぐため界壕(かいごう)を築くなど、内外の莫大(ばくだい)な出費のため財政が窮迫した。こうした金の国情に乗じ宋は金に出兵したが、宋も財政難から戦闘が継続できなくなり、1207年和議が結ばれた。

1211年以後チンギス・ハンは金国に進撃し、中都(北京)を占領し、河北・山東地方を攻略した。金は河北を放棄し、兵を河南に移動させた。金は17年宋と戦(いくさ)を始め、またチンギス・ハンの没後、ハン位を継いだオゴタイは32年開封を囲んだ。金の哀宗は帰徳へ逃げ、ついで蔡(さい)州へ逃げたが、この地でモンゴルと宋の連合軍に攻められ、34年哀宗が自殺し、金国は9代120年で滅びた。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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