Subject   : 大憲章

カテゴリー  : 歴史  > 


 大憲章
1215年、イギリスのジョン王が彼の失政を批判する貴族らに強いられて承認した勅許状。大憲章と訳す。

1204年フランス王フィリップ2世により大陸領の大半を奪われたジョンは、イギリスの内政に専念したが、彼の頻繁な課税と軍役の要求は貴族らの不評を買った。またカンタベリー大司教位を空位にしてその間の収入を横領したため、09年教皇インノケンティウス3世より破門され、14年には貴族の支持を失って、大陸領回復にも失敗した。このような内外の失政に対して貴族が反抗し、15年6月ジョンは彼らが起草したマグナ・カルタへの署名を強いられた。

前文と63か条に分けられるが、封建的慣行に反する不当な上納金、軍役代納金の徴収への反対(12条)、貴族らの封建的特権の尊重(34条)、不当な罰金や自由民に対する非合法的な逮捕の禁止(20条・39条)、そのほか適正な裁判、行政の実施、都市特権の尊重、商人の保護などを要求している。国王も法の下にあるという原則を確立した重要な文書で、王と貴族との間の封建的主従関係の原則を規定したものである。その後、この実施をめぐって紛糾し、1215年8月から内乱となり、翌年ジョンが死亡して、問題は次のヘンリー3世時代に持ち越される。その間の緊迫した内外の諸情勢から、マグナ・カルタは16、17年と修正のうえ確認され、25年には国王の立法権を回復する修正を加えて再確認のうえようやく公布された。しかし、親政したヘンリー3世はそれを無視し、独裁化して貴族の反乱をよび、ついでエドワード1世もまた晩年に再確認を要求されるなど、13、14世紀のイギリス国制史はマグナ・カルタをめぐって展開された。その後は忘れられたが、17世紀にイギリス国民の自由の伝統を象徴するものとして思い起こされ、19世紀には自由主義的発展のなかで近代民主主義の原点として過当に評価されたが、イギリス憲政の発展のうえで果たした役割は大きい。現在もイギリス憲政の最重要文書の一つとされている。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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