Subject   : モンゴル帝国の分裂

カテゴリー  : 歴史  > 


 モンゴル帝国の分裂
モンケ・ハンが死ぬと、首都カラコルムでその留守を預かっていた末弟のアリク・ブハは、部下およびオゴタイ系諸王の支持を得て大ハン位につこうとした。そこでフビライは南宋(なんそう)と一時的に和平を結んで内モンゴル高原に帰り、腹心だけのクリルタイの推戴(すいたい)を受けて第5代の大ハンとなり、アリク・ブハを鎮圧して、1271年に国号を元(げん)と定めた。これに不満をもつ者は、オゴタイの孫ハイドゥをハンにいただいてフビライと対立し、ここに30年にわたる内戦が開始された。キプチャク、チャガタイ両ハン国はハイドゥ側にたち、イル・ハン国はフビライ側に味方して戦い、結局フビライ側の勝利に終わったが(1303)、そのときは、すでにフビライもハイドゥも死んだあとであった。この戦いは、遊牧・農耕両地帯を領有することによって開化した元朝、イル・ハン国と、遊牧地帯を本拠として従来の遊牧的伝統を保持しようとする諸ハン国との間の抗争であった。この結果、モンゴル帝国は事実上分裂したが、そののち、元朝と対立した諸ハン国がしだいに開化するに及んで、それらは元朝と和議を結ぶようになり、モンゴル帝国の連帯性が復活した。こうして、元朝はモンゴル帝国の正統を継ぐ宗主国とみなされ、すでに1310年に滅亡していたオゴタイ・ハン国を除く他のキプチャク、チャガタイ、イルの三ハン国はこれと連合し、ユーラシア大陸は、いわゆる「パクス・タタリカ」(タタールの平和)を享受し、アジアとヨーロッパとの間の文化交流は一段と活発になった。しかし、モンゴル帝国は、モンケ・ハンの治世までモンゴル高原の大ハンの権力と血縁のつながりとによって保っていた統一性を失い、元朝を宗主国とし、これとその政権外に独立した三ハン国とによって構成された連合王国にすぎなくなった。そして、この連合王国も元朝の滅亡(1368)によって崩壊した。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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