Subject : 三部会
カテゴリー : 歴史 >
三部会
-
僧侶(そうりょ)、貴族、平民の各議員で構成され、1302年、僧侶への課税を企てたフィリップ4世(在位1285〜1314)がローマ教皇ボニファティウス8世に対し国の結束を誇示するために招集したのが最初とされる。
08年にはテンプル騎士団の解散のためにも開催。百年戦争中、ジャン善良王(在位1350〜64)が捕虜になると、延べ3年にわたり常時開会となり、三部会の発意による定期会合、租税徴収への承認権などを摂政(せっしょう)に認めさせた。とはいえ、近代的議会制への道はまだ開かれておらず、商人組合長エチエンヌ・マルセルの乱(1358)の失敗後、三部会の試みは挫折(ざせつ)した。15世紀末からはカイエ(陳情書)を持ち寄って統一カイエを作成し、国王に提出する習わしとなる。宗教戦争中、招集の機会が増え、1560年にオルレアン、76年、88年ブロアで開かれ、宗教和議が行われたが宗派対立は深まった。93年のパリでの三部会はリーグ(カトリック強硬派)のみの会合で、ユグノーの王位継承者アンリ・ド・ナバル(後のアンリ4世)に反対し異端王の即位を認めないとの決議をした。制限王制的な動きが強まるなかで1614年、摂政マリ・ド・メディシスが招集した三部会では、僧族は、司教座空位中に国王が聖職禄(ろく)を転売することの中止を、貴族は売官制の撤回を、平民はガリカニズム(国家教会制度)の擁護とタイユ(人頭税)の減免をそれぞれ要求し、3身分の足並みがそろわなかったため、成果なしに解散した。これ以後、革命前夜まで一度も招集されなかった。絶対王制の時代に入ったのである。
1788年、ルイ16世は高等法院の要求をいれ、窮迫する財政について三部会の意見を徴することとし、財務長官ネッケルの勧めで、伝統的形式をやや修正して招集した。つまり、平民議員の倍増と司祭など下級聖職者、非法服の貴族を議員に選ばれやすくしたのである。翌年5月、ベルサイユに招集された三部会では、冒頭から討議形式で紛糾した。平民身分は財政より憲法制定が先決であるとし、独自に国民議会を宣言、特権身分からも合流する者が出て帰趨(きすう)を決し、フランスはここに革命を迎えることとなる。
- ●
-
<出典: 日本大百科全書(小学館) >
⇒
世界史年表
[メニューへ戻る]
[HOMEへ戻る]
[前のページに戻る]