Subject : ポーランド・リトアニア王国
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ポーランド・リトアニア王国
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ポーランド=リトアニア王国というのは、14〜16世紀に存在した東ヨーロッパの中世国家である。
- ● 同君連合・ヤゲロー朝
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ポーランドのカジミェシ3世(在位1330〜70)はポーランドの発展に功あったが,男子の後継者をもたなかったので,甥のルドヴィク1世(=ハンガリー王ラヨシュ:ポーランド王在位1370〜82)に王位をゆずった。
だが、そのルドヴィクも男子の後継者をもたなかったので,彼は、長女マリアにハンガリー王位とポーランド王位を後継させるように画策、娘の継承権を確保するために,コシュイツェのセイム(国会)で,貴族の免租・王の選挙などを特許状として出した。
だが、これにポーランドのマグナートが反対し,1384年,妹のヤドヴィガ(在位1384〜99)を押して女王とし,隣国のリトアニアの大公ヤギェヴォ(ウワディスワフ2世)と結婚させ,ヤゲロをキリスト教に改宗させて,1386年以後,ポーランド王とした。
これがヤゲロー王朝の始まりである。
以後6人の子孫が両国を統治し,ドイツ騎士団を破って勢威を高め,また両国関係の緊密化を促した結果,両国はルブリン合同規約(1569)を結んで、王朝断絶後も1795年まで合同を維持した。
一時,ハンガリー(1440〜44,1490〜1526)やチェコ(1471〜1526)の王位も獲得。
内政面では中小貴族に諸特権を付与して、「シュラフタ民主政」と呼ばれる政体を現出し,リトアニアやウクライナ貴族のポーランド化を促進させた。
このようなポーランドによるルーシ支配の伝統は,19,20世紀にポーランドを中心とした「多民族連邦国家建設論」を生み,それは「ヤギェウォ理念」と呼ばれた。
これに対する「単一民族国家論」として「ピアスト理念」がある。
- ● リトアニア
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リトアニアはバルト系のリトアニア人のつくった国で,13世紀にドイツ騎士団の圧力を受けたことで統一が開始され,大公国となった。
1363年にはロシアからウクライナを奪うほどの威光を誇ったが,一面では,ロシア化も進んでいた。
ポーランドとリトアニアの同君連合は,ボヘミアやハンガリーに対抗する意味もあったが,とりわけ,ドイツ騎士団に対抗する意図をもっていた。
リトアニアでは,ポーランドとの同君連合に反対する勢力がヤゲロ大公の従弟ヴィタウタスをおした。
ヴィタウタスは,当面の敵であるドイツ騎士団とさえも結んで対抗した。
このため,同君連合としての王国を存続させながら,リトアニアをポーランドと切りはなして大公国とし,ヴィタウタスを大公とすることも黙認された。
それは1447年,カジミェシ4世が即位するに当たって公認するのであるが,妥協のなった両国は、1410年,タンネンベルクの戦いで,共同してドイツ騎士団を破り,ドイツ騎士団が急速に衰える原因をつくった。
カジミェシ4世はグダニクスを奪回して,バルト海への道を確保し,東プロイセンを宗主権のもとに置くことに成功した。
リトアニア大公国も,15世紀末には,ポーランドに東隣し,バルト海岸にこそ達しなかったものの,黒海に達する領土を擁し,東のモスクワ大公国に対抗した。
カジミェシ4世の子ヴワディスワフ2世はハンガリー王となり,その弟ヤン1世(在位1492〜1501)と協力して,ハプスブルク家に対抗したが,ヤン1世の弟アレクサンデルはリトアニア大公(在位1492〜1506)となり,兄ヤン1世の死後はポーランド王も兼ねているので,同君連合は再び,一時的に,復活した。
- ● ルブリン連合
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トルコの進出は,カルパティア山脈の北にあるポーランドにも影響を与え,ハプスブルクとの妥協を進めさせた。
一方,リトアニアはロシアの侵略に苦しめられた。
ポーランド王ジグムント2世(在位1548〜72)はロシアのイヴァン4世とリヴォニア戦争(1558〜82)を行い,その進出をくい止めたが,リトアニアでは,ロシアの進出を前に,ポーランドの保護を求める空気が強まり,ポーランドにもリトアニア合併の考え方が生じていた。
こうした中で,ジグムント2世は1569年,ルブリン(ヴァイクセル川上流,東側)に両国合同国会を召集し,6月1日,リトアニアは独自の行政権と軍隊をもつが,両国が共通の君主・議会をもつ国家であることを宣言した。
この間,リトアニアのマグナートたちのなかには,リトアニアの事実上のポーランド化に反対するものもあったが,ロシア・タタールの進出の前に,ルブリン連合を認めた。
ルブリン連合は,ヤゲロー朝によるリトアニア大公国支配の終了を意味するもので,リトアニアはポーランドの一部になったといってよい。
<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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