Subject   : 明

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 明
14世紀中ごろ、元(げん)の圧政に対抗して各地で反乱が起こったが、なかでも白蓮(びゃくれん)教の一派である紅巾(こうきん)軍が優勢であった。貧農出身の朱元璋(しゅげんしょう)は紅巾軍に加わり、しだいに頭角を現した。彼は白蓮教を排して地主勢力と結び付き、群雄陳友諒(ちんゆうりょう)や張士誠を滅ぼし、揚子江(ようすこう)デルタ地帯の穀倉を押さえた。1368年、都を応天府(南京(ナンキン))に定め、国号を明、年号を洪武(こうぶ)と称した。これが明の太祖であり、年号を冠して洪武帝ともよばれる。太祖は華南を平定する一方、北伐を行い、元の都大都(北平=北京(ペキン))を占領し、元を漢北に追いやった。元の残存勢力北元は、その後も反攻の機をうかがったので、明は遼東(りょうとう)を占領して北元と高麗(こうらい)との交渉を絶ち、ついで青海、雲南を平らげて北元を圧迫し、ノモンハン付近に軍を送ってこれに大打撃を与えた。明は南京に都を置いたから、政治と経済との中心は一致したが、都と北辺とが遠く離れることとなり、その防衛に苦慮した。太祖は諸子を王として各地に分封し世襲としたが、その地の支配権は与えなかった。ただ、北辺の諸王には外敵の侵入に備えて兵権を付与したから強大化を招き、太祖晩年の悩みとなった。

太祖の没後、孫の恵(建文)帝が16歳で即位した。彼は諸王の勢力を削減しようとしたため、叔父燕王(えんおう)の背反にあった。4年間の戦いののち、太祖に疎んじられた宦官(かんがん)の内応もあって都の南京は陥り、恵帝は自殺した(靖難(せいなん)の変)。1402年燕王すなわち成祖(永楽帝)が帝位についた。彼は自らの経験を生かして諸王を廃したり、彼らの勢力を削り、戦略上の必要から自己の本拠地である北平に遷都して北京と改め、南京を陪都とした。このため都と江南とが隔たることとなったが、大運河を改修して江南の物資を都や北辺に送った。成祖は政治的反対勢力の台頭を警戒して、皇帝直属の秘密警察である東廠(とうしょう)を設け、また簒奪(さんだつ)の汚名をそらすために『永楽大典』を編纂(へんさん)したり、大規模な外征を行った。安南(ベトナム)では内乱に乗じてこれを併合し、イスラム教徒の宦官鄭和(ていわ)に南海大遠征を命じた。遠征は永楽から宣徳年間まで7回に及び(1405〜33)、ジャワ島、インド、セイロン島から一部はアラビア半島、アフリカ東岸にまで達した。遠征の結果、南海方面の知識や珍奇な品物が中国にもたらされるとともに、朝貢貿易は一段と活発になった。モンゴル高原では、靖難の変に乗じてモンゴル人が反攻の機をうかがっていたので、成祖は5回にわたって漠北に親征を行った。このため明の威令は東北奥地から黒竜江下流域にまで及んだ。

第5代皇帝宣宗(宣徳帝)は成祖の対外積極策を受け継いだが、中途より対外消極策に転じ、ベトナムを放棄し、北辺の防衛線を長城線にまで後退させた。しかしながら内政を重視したので、財政は安定し平和がしばらく続いた。ついで即位した英宗(正統帝)は、宦官王振を寵信(ちょうしん)したため、宦官の横暴を招き人民を苦しめた。1448年には、茂七(とうもしち)の乱が起こり、小作料をめぐる佃戸(でんこ)の反地主闘争(抗租)が激化して社会不安を助長した。モンゴル高原ではエセン・ハンの統一後、オイラート部が強大となった。明は茶・馬市を開いて和平を求めたがまとまらず、1449年にはオイラート部の侵入を受けた。英宗は功名をねらう王振の議に従って不用意に親征を行った結果、土木堡(どぼくほ)において捕虜となり(土木の変)、都の北京は危機に陥った。ただちに即位した代宗(景泰帝)は、于謙(うけん)の策をいれて固い防衛体制を敷いたので、かろうじて都の陥落を免れた。翌1450年英宗は明へ送還されたが異母弟代宗と対立、1457年には代宗の病に乗じて復辟(ふくへき)(天順帝)した。その後オイラート部も内紛によって衰え、北辺はやや小康を保った。しかしながら、これ以後、明のモンゴル高原に対する威令はまったく失われ、明の守勢は明らかとなった。明は万里の長城を修築し、九辺鎮を設けて防衛体制を強化しようとしたが、大量の軍隊をいかにして維持するかが財政上の難問となった。

15世紀末、孝宗(弘治帝)のころは政治も比較的安定したが、ついで帝位についた武宗(正徳帝)は逸楽にふけり、宦官劉瑾(りゅうきん)の専横を許したため、16世紀初頭には劉六(りゅうろく)・劉七の乱をはじめ内乱が続いた。武宗の叔父(おじ)の子世宗(嘉靖(かせい)帝)が帝位につくと、皇位の継承をめぐって無意味な論議(大礼の儀)が繰り返された。世宗はしだいに政治を疎んじ道教を盲信したため、政治が乱れ財政は逼迫(ひっぱく)した。そのうえ、北方からは約30年間にわたってアルタン・ハンの侵入を受け、馬市を再開することを約して、ようやく和議が成立した。同じころ東南沿海地方では倭寇(わこう)や反権力的な海寇反乱が横行し、いわゆる北虜南倭(ほくりょなんわ)に苦しんだ。明は、1567年に海禁令を緩めたため、ようやく南倭の害も治まった。1517年ポルトガル人が初めて中国に来航し、ポルトガル・スペイン人との貿易が開始され、大量の銀がメキシコや日本から流入した。

第14代皇帝神宗(万暦(ばんれき)帝)は張居正(1525―82)を起用し、社会的危機を乗り切るために、戸口・田土を調査し、税制を改革して政治・財政の立て直しを図った。しかしながら張居正の死後、綱紀はたちまちにして乱れ、宦官の専横もあって政治は混乱した。そのうえ、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮侵略などに対するいわゆる万暦の三大征に女直(じょちょく)(女真)の興起も加わったため、多額の軍事費を費やし、財政は窮乏した。一部の正義派官僚によって結成された東林党は、閹党(えんとう)の政治的腐敗を激しく批判したため、東林・非東林の対立が激化した。17世紀前半、熹宗(きそう)(天啓帝)の信任を得た宦官魏忠賢(ぎちゅうけん)は、恐怖政治を断行して東林党を弾圧した。相次ぐ廷争に政治は乱れ、加えて社会矛盾の顕在化に伴う階級対立の激化によって、各地で抗租や民変(都市で働く傭工(ようこう)をはじめとする都市民衆の闘争)、奴変(ぬへん)(奴隷身分に転落した奴隷たちの闘争)などが起こった。最後の皇帝毅宗(きそう)(崇禎(すうてい)帝)は、魏忠賢らを断罪して綱紀の粛正を図ったが、すでに遅く、李(り)自成や張献忠の大乱が起こった。1644年李自成の軍が北京に入城するや、毅宗は宮殿の裏山で自殺し、明は滅亡した。このあと明の遺臣が華中・華南で次々に帝を称し、李自成軍を破った清(しん)軍に抵抗したが、ついに1661年永明王がビルマで捕らえられた。これを南明ともいう。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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