Subject : スペイン王国
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スペイン王国
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イスラーム勢力に圧倒されていたキリスト教諸勢力がイベリア半島北部より台頭し、「国土回復」の名のもとレコンキスタ(再征服運動)を展開した。その担い手となったのが、ポルトガル王国、カスティーリャ王国、アラゴン王国などであった。1479年、カスティーリャ王国とアラゴン王国の合併によって成立したスペイン王国は、1492年にナスル朝グラナダ王国を滅ぼしてレコンキスタを完了させた。
グラナダの陥落は数世紀にわたるイスラムの大帝国の征服からヨーロッパが完全に解放され、これにより、レコンキタ(キリスト教徒によるイベリア半島回復を目指す運動)が終了します。イベリア半島最後のイスラム教国となっていたナスル朝(1230〜1492)は都をグラナダに置き、カスティリャに貢納して独立を保ちながら、アルハンブラ宮殿ではイスラム文化が隆盛を極めていました。対岸の北アフリカではモロッコのフェズに都を置くイスラム教国マリーン朝(1196〜1465)がジハード(聖戦)によってイベリア半島の再占領を目論んでいましたが、1309年ジブラルタルがキリスト教徒に占領されると半島にイスラム軍を進め、1340年リオ・サラドの戦いでポルトガルとカスティリャ連合軍に敗北を喫しました。これ以降半島への進出は無くなり、グラナダ王国はイベリア半島に孤立化することとなりました。
これに対し、キリスト教国はお互いに争いながらもその勢力を拡大してゆきました。カスティリャ王国イサベラ女王(1世)とアラゴン王国フェルナンド王(2世)とが1469年(王女と王子の時)結婚していましたので、1479年両国は連合して共同統治を行い、スペイン王国を形成しました。1462年にはジブラルタルが、そして1487年マラガがキリスト教徒の手に落ちていましたので、1491年キリスト教国のカスティリャ・アラゴン両王国はグラナダへ軍を進め、イスラム教国へ降伏を勧告しました。翌年1月2日イスラム教国最後の君主アブ−・アブド・アッラーフはこれを受け入れ、都のグラナダを明渡し、イベリア半島を後にしました。これにより、イサベラ女王とフェルナンド2世の夫婦王が入城し、スペイン全土がキリスト教国の”スペイン王国”として統一されることとなりました。
そういう時期にコロンブスが西回りのインド到達計画を女王に提案してきました。1478年にはカスティリャ王国はポルトガルからカナリア諸島を勝ち取り、1479年のアルカンバス条約で正式にスペインへ帰属していましたので、女王はポルトガルとの対抗意識もあって、これ(コロンブスの計画)を直感的に裁下したといわれています。そして打ち続く戦乱で資金も枯渇していましたので、自分の宝石類を質に入れて資金を調達し帆船を準備したとも伝えられています。またイタリ−・ヴェネティアの商人達も投資と考えて 資金を出資したので、コロンブスは船員や食料など航海に必要な物資を準備できました。こうして、1492/8/3にコロンブスは人跡未踏の未知の海へと船出してゆき、翌年3/15に無事にパロス港に帰ってきました。コロンブスが成功したという話はスペイン全土に伝わり、多くの船乗り達がインド(新大陸)目指して出帆しました。
かくして、スペインの大航海時代が始まり、コンキスタドールと呼ばれる一攫千金を夢見る野郎ども(食い詰め者)もどっと新世界へと往きましたので、探検から征服へと変貌して行きました。探検航海が進むにつれて新しい地図情報が伝えられ書き加えられました。それは無限とも思われる財宝のありかを示す地図でも有りましたので、まさに秘中の秘として極秘に取り扱われ、スペインでは二重の鍵のかかった金庫に保管し、鍵は運輸大臣と水路部長官が保管して航海の出発前に、この二人が立ち会って鍵をあけて船長に地図を手渡し、航海から帰ってくるとまず地図を金庫にしまったといわれています。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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