Subject : グラナダ陥落
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グラナダ陥落
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キリスト教徒は徐々にイスラム教徒を追い詰め、1143 年にポルトガル王国が 1479 年にスペイン王国が成立した。
1492 年、スペイン王国はグラナダを陥落させ、イスラムのナスル朝は滅び、レコンキスタが完成する。
711 年、ジブラルタル海峡を越えてイベリア半島に侵攻したウマイヤ朝は西ゴート王国を滅ぼす。これに対し、718 年、西ゴート王国の貴族を称するペラヨがアストゥリアス王国を建国した。これをもって、キリスト教徒のレコンキスタ(国土回復運動)のはじまりとみる。
732 年にはトゥール・ポアティエの戦いが起こり、フランク王国はウマイヤ朝に勝利する。しかし、イベリア半島におけるイスラム勢力の支配は続く。
15世紀、カスティリャ王国はエンリケ4世(位1454-74)の治世となった。エンリケは次の王位に娘フアナ(1462-1530)を推したが、”実子ではない"という噂が貴族の間で持ち上がり、対立貴族側はエンリケ4世の異母妹のイサベル(1451-1504)を擁立した。またもや内乱に突入したカスティリャでは、フアナ派(ポルトガル支援)とイサベル派(アラゴン支援)で戦闘が繰り広げられたが、結果イサベル派が勝利してイサベルの即位が決まり(トロス=デ=ギサント協定)、カスティリャ女王イサベル1世(位1474-1504)が誕生した。
イサベルは王女時代の1469年、アラゴン王子のフェルナンド(1452-1516)と結婚していた。フェルナンドは結婚を機に、カスティリャ王フェルナンド5世(位1474-1504)としてイサベルと共同統治を担当することになった。そして、1479年、フェルナンド5世はアラゴン王フェルナンド2世(位1479-1516)としても即位を決め、2人が統治するカスティリャとアラゴンが同君連合として統合に向かった。その結果、両国はスペイン王国の成立となったのである。大国スペインがイベリア半島に誕生した瞬間である(スペイン王国誕生。1479)。
この統一に驚倒したのがナスル朝であった。1470年には全盛期を過ぎた親玉のマリーン朝が既に滅亡しており、アンダルスのイスラム勢力はこの首都グラナダを拠点とするナスル朝のみであった。地中海をはじめとする海上政策もスペインによって身動きできず、経済打撃は深刻な状態であっただけに、グラナダ陥落は時間の問題であった。1480年代になると王室の内紛も頻発し、ボアブディル王(ムハンマド12世。位1482-92)の時代になるとレコンキスタによるカスティリャ王国(ここではスペインを構成する一王国)の侵攻も激化した。
1490年に突入すると、グラナダはカスティリャ軍によって遂に包囲された。そして1492年1月2日、ボアブディル王は遂に北アフリカへの亡命を決め、アルハンブラ宮殿と王都グラナダは陥落、ナスル朝の260年の歴史に幕が下ろされた(1492。グラナダ陥落。ナスル朝滅亡)。イベリア半島のキリスト教勢力によって展開した国土の完全回復は、800年近い時を経てようやく現実となったのである(1492。レコンキスタ終了)。
1496年、レコンキスタを完成させたカスティリャ女王イザベル1世とアラゴン王フェルナンド2世(カスティリャ王フェルナンド5世)は、ローマ教皇によってその功績を称えられ、"カトリック両王"を授与された。その後もイベリア半島におけるイスラム教徒やユダヤ教徒はキリスト教に迫害的に改宗させられ、改宗できない各教徒は半島から外へ出された。そして、イベリア半島に住むイスラム教徒の聖地であったアルハンブラ宮殿のモスクは教会へ修築され、カトリックの宮殿と変わっていったのであった。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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