Subject   : オスマントルコ

カテゴリー  : 歴史  > 


 オスマントルコ
「オスマントルコ」という呼ばれ方をされることも多いが、最近はこの呼び方が避けられて「オスマン朝」や「オスマン帝国」と呼ばれることが多い。 これは、この国家は決して「トルコ民族の国家」といえるような性質の国家ではなかったためである。 確かにこの王朝はトルコ系民族を出自としており、公用語もテュルク系の言語(オスマン・トルコ語)であった。しかし、実際には支配者層も被支配者層も多様な民族・宗教を出自とする人々により構成されており、トルコ人が帝国内の他の民族と比べて特に優遇されていたわけでもなければ、ましてや当時のトルコ人自身が「オスマン帝国は俺たちトルコ人の国家だ!」と考えていたわけでもなかった。 その一方で対外的にはトルコと称され続けたが、オスマン帝国がトルコと自称し始めるのは民族意識の強まる近代からである。

モンゴル高原より北方の遊牧民、我々日本と同じ黄色人種(モンゴロイド)であるテュルク(トルコ)民族は、当時の中国に「丁零(ていれい)」と呼ばれていた。彼ら丁零は4~6世紀には突厥(とっけつ)と呼称され、中央ユーラシアに跨る大国を建てたものの、しだいに東西に分裂し、8世紀には滅びてしまった。

その際にテュルク民族は多方面へ散らばっていったのだが、中には西方の白色人種(コーカソイド)と混血していき、徐々に西へ、西へと草原を駆けた者もいた。

西方へと進む彼らはイスラム教を受け入れ、イスラム社会への進出を試みた。カラハン朝やセルジューク朝(1038〜1308)である。後者は現在のトルコ共和国の領土、アナトリア半島へと度重なる侵入を繰り返し、東ローマ帝国と争った。そうしてアナトリアは次第にトルコ化していく。

13世紀半ばに、当時アナトリアを支配していたルーム・セルジューク朝がモンゴル勢力に敗れると、支配下にあったトルコ系の小勢力が次々と自立していった。そのうちの一つが後に大帝国へと成長していくオスマン朝であった。

オスマン朝の初期の歴史は史料が乏しくよくわかっていない。 15世紀以降に編纂された年代記によれば、1299年に初代君主のオスマン・ベイが建国を宣言したとされ、一般的にこの年がオスマン朝の建国年とされている。しかし、同時代史料の裏づけはなく異論もある。

初期のオスマン国家がどのような性格の国家だったかについては議論があるが、ガーズィーと呼ばれる戦士集団であったというのが定説である。ガーズィーとは聖戦の戦士を意味する言葉で、異教徒への聖戦という名目でビザンツ領内に侵入し、略奪を行って生計を立てていた集団であったとみられている。要は山賊に毛の生えたような集団に過ぎなかったわけだが、当時はルーム・セルジューク朝、東ローマ帝国共にこうした集団を国境地帯に配置し、辺境防衛の役割を担わせていたようである。

ルーム・セルジューク朝の弱体化につれて、こうした辺境地帯の有象無象の中から現れた有力者たちが君候国(ベイリキ)と呼ばれる小国家を建てていく。 そのうち一つがオスマン・ベイの建国したオスマン君候国であった。

オスマン・ベイがブルサ包囲中に亡くなると、息子オルハン(位1326〜1359)が後を継ぎ、ブルサの攻略を果たしてこの町を首都に定めた。 オルハンは東ローマ宮廷の内紛に乗じてバルカン半島に進出し、ヨーロッパ側での領土拡大の足がかりを築くことに成功した。

続いてオルハンの息子ムラト1世の頃にもなると、オスマン朝は東ローマ帝国の都市を次々と陥落させていった。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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