Subject : インド航路発見
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インド航路発見
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ヴァスコダ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)は、ポルトガルの航海者で、下級貴族(港町シネスの大判事エステバン)の三男として、ポルトガル南部のシネスに生まれました。前半生は詳しいことはほとんど不明です。ポルトガル国王マヌエル1世に航海術と外交手腕をかわれて、1497年28才で、インドに遠征するポルトガル船隊の司令官となりエル・ミナへ向かうバーソロミュー・ディアズとヴェルデ岬で別れて、喜望峰(Cape of Good Hope)を回って、翌年インドのカリカットに到達しました。
ガマはインドの香料・シナモンなどの産物を求めて、1497年7月8日(土)に国王マニエル1世や多くのポルトガル・リスボン市民の見送りを受け、サン・ガブリエル号に乗船、約170人の乗組員と4隻の船隊を指揮して、リスボン・テージョ河口のレステロを出帆しました。水先案内人(Pilot)としてジョアン・デ・リスボアが乗組んでいました。
一路、南アフリカの喜望峰を目指して南下、決して安全な航海ではなかったらしく、マストが破損したりしたと記録されています。嵐で西に流されアメリカから960km近くの所へ達していたとの説も有ります。4ヶ月後、ようやく喜望峰に達しましたが強風に阻まれて、4ヶ日後にやっと追い風を捕えて、1497/11/22に喜望峰を通過、喜望峰近くのモッセルベイに投錨できました。当時、そこには「コイコイ人」がいて、牧畜をして住んでいました。ガマは帽子とかを与えて、牛を手にいれ、上陸してポルトガル王の名のもとに”パドラ”を建立・設置しましたが出港後に、それが引き倒されているのを望見しました。
1497/12/25にヴァスコ・ダ・ガマがナタールに停泊、上陸したので、そこをポルトガル語で「クリスマス」を意味する「ナタール」と名づけました。現在は「ズールーの地」を意味するズールー語の「クワズール」と組み合わさって、南アフリカ共和国の「クワズール・ナタール(KwaZulu-Natal)州」となっています。
- ● ヴァスコ・ダ・ガマの艦隊
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船隊の編制は、
・横帆式ナオ船・旗艦、サン・ガブリエル号、ヴァスコ・ダ・ガマ乗船
(200t)、3本マスト、全長27m、幅8.5m、150人乗組説有
・同じく姉妹船、サン・ラファエル号、弟のパウロ船長乗船(200t)
・三角帆式カラベル船、ベリオ号(100t)、(サン・ミゲル号説有)。
・大型補給船(400t)。
の4隻でした。
ポルトガルを出港してから9ヶ月後の1498年4月にケニヤ・マリンディに達しました。そこはインドの木造帆船「ダウ船」で賑わっていました。インド商人のダウ船はアラビア海を自由に航海して、インドとアラビア・北東アフリカと交易していましたので、ガマは、インド洋の風と潮を熟知しているパイロット(水先案内人)アラブ人イブン・マージド(Ahmed bin Majid、1421-1500)を雇って乗船させ、東向きの季節風「モンスーン」が吹き始める4月下旬に、直線距離で4000km離れているインド西海岸目指して旅立ちました(パドラマウト商人というアラビア系の人もいたようです)。マリンディの”パドラ”は現在も設置されているそうです。
航海日誌は1498/4/22にマリンディを出港したと記録しています。次に現在のイェ−メン共和国に属しているソコトラ島にアフリカ沿岸最後の投錨をして、一路、インドへとインド洋を横断しました。
日誌にはこう記されています、「ソコトラ島から南南東へ600レグア(3546Km)は来た、そして数十の島々を発見(平均海抜1.8mのモルディブ諸島です)、23日振りに高い陸地を遠望、ついに1498/5/18(金)インド・カリカットのマラバル海岸、カリカット王国に達した」と。
1498/8月カリカット(コージコード)を出帆、帰国の途に着きました。3ヶ月後アフリカ・ソマリアのモガディシオに到着、苦しい船旅で乗組員30人を失い、乗員不足に陥り「サン・ラファエル号」を破却していました。途中で弟パウロが重病(壊血病)となりましたので、ガマは弟を救うためベルデ岬諸島で下船、快速のカラベル船を雇って帰国を急ぎ、マデイラ(アゾレス説有)諸島まで来た時に介抱空しくパウロは亡くなりました。こうした苦難の航海の後1499年7月ようやくリスボンに帰港することが出来ました。
ポルトガルを出帆して実に10ヶ月以上かかってインドの香料原産地カリカットへ到達、大量のスパイス(香辛料)を持ち帰るという成果をあげてインド航路の発見・開拓をなし遂げてポルトガル・リスボンへ帰国したわけです。出帆時の乗組員60名以上と一隻の船(乗員不足でサン・ラファエル号を廃船)を失っていましたが、彼のもたらした香辛料とインド情報はポルトガル全土を興奮のルツボと化しました。また「武力によるイスラム商人の駆逐無しには成功は覚束ない」との彼の意見は、遠くヴェネチアやエジプトには最悪の事態と受け取られましたが、ポルトガルは武力征服へと乗り出しました。
1502年にも再び司令官としてインドに赴きました。その後1524年に歴代 インド総督の失政を改革するためインドに派遣されましたが、その直後に55才で病死しました。したがって、ガマはもっぱら、インド航路の発見・開拓者として歴史に名を残しました。
1497年インドに向け出帆し10ヶ月以上の航海後、1498年29才でインド・カリカットに到達して、インド航路を開拓しました。
生涯に3回インドに赴き、同地で55才で亡くなりました。
なお、ポルトガル政府観光局の公式HP「シネス」では1468年に生誕となっています。
<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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