Subject : ビザンツ帝国滅亡
カテゴリー : 歴史 >
ビザンツ帝国滅亡
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オスマン帝国の軍勢は、約10〜12万。常備軍イェニチェリ1万、正規騎兵7万、その他が雑多な軍勢だったようです。そして、当然大砲を山ほど製造し運んできました。狙うはただ一点。城壁の破壊です。
ところが、ビザンツ帝国の城壁。まだ耐えます。破壊しても破壊してもどんどん修復され、さらにオスマン海軍は西洋からの援軍に打ち破られ、援助物資搬入を許してしまいます。
・・・・が、これは、もう有名すぎて書くに及びませんが、メフメト2世。なんと艦隊を山越えさせて、ビザンツ海軍の背後に侵入し攻撃。相次ぐ大砲に海上からの侵攻に、東ローマ側も疲れが出てき始め、さらに頼みにしていた本格的な西洋からの援軍も無い。
そんな時、閉め忘れていた門からオスマン軍が侵入し大混乱。さらに、この頃には城壁もガタが来て、そこらじゅうに割れ目が。そこからも侵入されると、ついに東ローマ帝国は敗北。 陣頭指揮を執っていた東ローマ皇帝コンスタンティヌス11世は、戦死しました。53日間の攻防でした。ここに、古代から続いてきたローマ共和国・ローマ帝国の伝統を受け継ぐ国は、ついに滅び去ったのです。
メフメト2世は、ここをイスタンブール(イスタンブル)と改称するとともに、多くのキリスト教会をモスクに変え、ただし一部はキリスト教徒とユダヤ教徒用に残し(税を払えば信仰を認めた)、ここを自分の首都とするべく大改修。すっかり荒廃したこの地も、再び大繁栄を遂げるようになります。また、1465年にはトプカプ宮殿という巨大な居城を作り上げ、オスマン帝国のシンボルとしました。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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