Subject : 永楽帝
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永楽帝
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中国、明(みん)朝第3代の皇帝(在位1402〜24)。姓は朱、名は棣(てい)。
明朝の創業者である太祖洪武帝の第4子で、廟号(びょうごう)は太宗、嘉靖(かせい)帝のとき改めて成祖。永楽帝の名称は、治世が永楽の年号でよばれたことに基づく。21歳のとき北平(北京(ペキン))に封ぜられ、燕(えん)王となってから頭角を現し、太祖の後を継いだ甥(おい)の建文帝から位を奪って(靖難の変)帝位につき、国都を北京に移した。その22年にわたる治世は華々しい対外積極政策で飾られ、中国史上もっとも活気にあふれた時代であった。
彼は中国史上最高の軍人帝王の評をもち、漢人の皇帝としてはただ1人、自ら大軍を率いて五度もモンゴリアを親征したほか、シベリア経営に乗り出し、黒竜江(アムール川)河口から苦夷(くい)(樺太(からふと))にまで領土を拡張し、チベットを臣属させ、安南にも兵を進め、交趾(こうし)布政司を設けて中国領土に編入した。西方についても、嘉峪関(かよくかん)付近でティームール帝国と接触し、朝鮮半島では李(り)氏の朝鮮王朝を服従させ、室町幕府の3代将軍足利義満(あしかがよしみつ)を日本国王に封じて、日本を朝貢国とするに至った。さらに南方諸国に対しては、鄭和(ていわ)の率いる大船団を七度も派遣し、東南アジアから、インド洋、ペルシア湾、紅海の沿岸、アフリカ東海岸の三十数か国と活発な貿易を行わせた。こうして15世紀初頭の東アジア世界には、直接の武力制圧、あるいは朝貢関係を通じて、明帝国を中心とする国際的秩序が成立し、永楽帝はその主宰者であったといえる。
だが、対外政策に比べると、内政面での業績は見劣りがする。『永楽大典』などの大掛りな勅撰(ちょくせん)書の編纂(へんさん)が勅命によって行われたのが目だつ程度である。しかも、靖難の変後、建文帝側近の有力者とその一族に対して行った誅滅(ちゅうめつ)事件は、「永楽の瓜蔓抄(つるまくり)」として後世の非難を受け、また、簒奪(さんだつ)者の後ろめたさに起因する宦官(かんがん)の重用など、内政的には暗さの伴っているのは否定できない。要するに永楽帝は、太祖の育てた財力を利用して華々しい対外活動を繰り広げたのであるが、その生涯にふさわしく、1424年7月28日、モンゴリアへの第五次親征の帰途、楡木川(ゆぼくせん)(内モンゴル自治区多倫(ドロン)県の北西)の地で病没した。遺体は北京の北方40キロメートルにある天寿山麓(さんろく)(北京市昌平区)に葬られ、陵は長陵とよばれている。なお、その付近には永楽帝以下13人の皇帝たちの陵墓群があり、明十三陵として観光地となっている。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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