Subject : ブルボン朝(フランス)
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ブルボン朝(フランス)
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1574年アンリ3世即位、'84年にはその弟の死により、王の妹を妻にしたブルボン家アンリが第一王位継承者として浮上、ユグノー戦争は新局面を迎えた。'89年過激派カトリックによってアンリ3世が刺殺されると、アンリは即位してアンリ4世(在位1589-1610年)となり、ここにブルボン朝が成立した。
王位につくときアンリ4世はユグノーからカトリックに改宗したが、ユグノー勢力は納得せず内戦はいつまでも続いた。これを打開するため、アンリ4世は1598年「ナントの勅令」を発布し、信仰の自由を認め、ユグノー戦争は終結した。
しかしアンリ4世は狂信的なカトリック教徒によって殺害されてしまった。このためルイ13世(在位1610-43年)が幼少で即位、王太后マリー・ド・メディシスが摂政となって一時政治が乱れたが、長じて宰相リシュリューが登場('24年〜)、帯剣貴族やユグノー勢力を抑圧し、三部会を閉鎖して王権を強化した。また法服貴族ル・ブレはリシュリューの考えを代弁し「王権神授説」を上梓した。また旧教国でありながら、ハプスブルク家に対抗するため、三十年戦争で新教側を支援した。この間戦費を調達するため増税を繰り返し、'30年代後半には各地で暴動が起こって、反徒に対する軍隊の弾圧は凄惨を極めた。
'42年リシュリューが、翌年ルイ13世が他界、わずか5才でフランス絶対主義を代表するルイ14世(在位1643-1715年)が即位した。摂政となった王太后アンヌ・ドートリッシュは、スペイン国王フェリペ3世の長女でありながらフランス王妃としての義務に目覚め、宰相となったマザランを支えた。
宰相マザランはリシュリューから国家への滅私奉公を叩き込まれ、三十年戦争を継続し、フランスを勝利に導くための資金調達にあらゆる手段を講じた。リシュリューが農民から絞れるだけ絞り取ったのに対して、マザランは都市への増税に照準を定めた。これに対してパリ市民や貴族の不満が高まり、フロンドの乱('48〜'53年)を引き起こした。この乱が勃発したとき、マザランはウェストファリア条約で三十年戦争を終結、アルザスを獲得して領土を拡大し、フランスはヨーロッパの政治に大きな影響力を持つようになった。乱は'53年にようやく鎮圧、貴族は王権に屈服した。また'58年フランス優位のうちに、スペインとピレネー条約を締結、国境を画定すると共に、ルイ14世とスペイン王女マリア・テレサとの結婚を決めた。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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