Subject : レパントの海戦
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レパントの海戦
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1571年、ギリシアのコリント湾レパントLepanto(現在のナウパクトス)岬沖で、オスマン帝国と神聖同盟(リーガ・サンタLiga Santa)諸国の艦隊の間に行われた海戦。オスマン帝国皇帝セリム2世は、オランダ独立戦争、スペインのイスラム教徒反乱、フランス宗教戦争などのヨーロッパ情勢にかんがみ、西方への進出を企て対イタリア戦争を決意、1570年キプロス島を占領した。このため、東インド航路の発展によって衰色をみせていたイタリア諸都市は、大いに脅威を感じて教皇ピウス5世に訴え、教皇はスペインとイタリア諸邦に呼びかけて、この年神聖同盟がなった。同盟の中心、スペインのフェリペ2世は、ドン・フアン・デ・アウストリアDon Juan de Austria(1547―78)を司令官として艦隊を編成、トルコ艦隊と戦わせた。
作家セルバンテスも参加したこの海戦は、神聖同盟側の有利のうちに終わった。スペインの黄金時代を象徴する一戦であったが、また奴隷漕手(そうしゅ)を主力とする大海戦の最後でもあった。
結果は、オスマン帝国の大敗に終わった。海戦に参加したおよそ285隻の内、210隻が拿捕され25隻が沈没、逃走が確認されたのが25隻で残る25隻も逃走したと思われる。3万人の多くが捕虜となって奴隷となるか処刑され、戦死または行方不明者も少なくなかった、ガレーの漕手となっていたキリスト教徒の奴隷12000人が解放された。
この戦闘は、西欧の軍隊がオスマン帝国に大きく勝利した最初の戦いとなり、ヨーロッパに大きな心理的影響を与えた。しかし、その後スペイン王国とヴェネチア・法王は足並みがそろわず、勝利をさらに前進させて当初の目的であるキプロス島奪還などの利益を獲得することが出来なかった。大敗と言っても、帰還時期を誤ったオスマン帝国側の提督の戦略的失策によるもので、この海戦の結果が即、西欧-オスマン帝国の軍事的均衡に繋がる訳ではなかった。
オスマン帝国は艦隊の再建に取り掛かり、6ヶ月後には大艦隊の艤装を完了した。ヴェネツィアから奪取していたキプロス島の権利を割譲させるなど、地中海における優位性を依然として維持し、地中海の西側においてもスペイン王国が制海権を確保するのはまだ先のこととなる。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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