Subject   : ロマノフ朝 

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 ロマノフ朝
ロシアの王朝(1613〜1917)。ロマノフ家は、イワン4世(雷帝)の最初の妃(きさき)アナスタシアの兄弟ニキタ・ロマノビチを始祖とするが、その祖先は14世紀前半のモスクワ貴族家門にまでさかのぼる。

1598年フョードル帝の死により、リューリク朝は断絶するが、それに続く動乱時代のあと1613年、全国会議はミハイル・ロマノフ(在位1613〜45)をツァーリに選出した。王朝の基盤が固まったのはその子アレクセイ(在位1645〜76)のときで、その子ピョートル1世(在位1682〜1725)時代にロシアは急速な近代化を遂げ、北方戦争(大北方戦争ともいう)勝利後の1721年に国名をロシア帝国とした。その後、エカチェリーナ1世(在位1725〜27)、アンナ(在位1730〜40)、エリザベータ(在位1741〜62)、エカチェリーナ2世(在位1762〜96)と女帝が続出したが、パーベル(在位1796〜1801)が即位するに及んで、帝位は男子に限られるようになった(1797)。だが、ロマノフ家の男系は、すでにピョートル2世(在位1727〜30)で、女系もエリザベータでとだえており、後者の死後当主となったのは、ホルシュタイン公フリードリッヒの子ピョートル3世(在位1762、母はピョートル1世の子アンナ)である。彼は即位後まもなくこれもドイツ人である妻のエカチェリーナ2世によって追放されるが、以後は両者の子孫が代々帝位についた。ロマノフ朝ロシアは、ヨーロッパの国際政治を左右する大帝国であったが、内にあっては農奴制を長く維持し(1861年まで)、農奴解放後も激化する革命運動に悩まされた。アレクサンドル2世(在位1855〜81)の暗殺後、アレクサンドル3世(在位1881〜94)、ついでニコライ2世(在位1894〜1917)の政府は弾圧を強化したが、日露戦争の敗北、1905年の革命、第一次世界大戦などにより体制は根幹から揺らぎ、1917年の二月革命により、ニコライ2世は退位し、300年間続いたロマノフ朝は崩壊した(同年3月3日)。皇帝一家は翌年7月、反乱を起こしたチェコ軍団が接近するなかで、エカチェリンブルグで処刑された。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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