Subject   : ピューリタン革命 

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 ピューリタン革命
17世紀のなかば、イギリスに起きた内乱を伴う政治変革(1640〜60)。清教徒革命ともいう。なお、わが国では、革命の期間を1642〜49年、あるいは、1642〜60年とする見方もある。しかし、革命の成果の多くが1640〜41年に達成されたこと、1649年の内乱終了後も政治変革が続行されたことを考えるならば、長期議会の開始から王政復古までを革命の期間とみるのが妥当である。

ステュアート朝期イングランドは国教会による王の絶対主義によって維持されていたが、富をえて上昇する者と没落する者が錯綜し、社会のしくみが絶対主義の確立されたテューダー朝期とは大きく異なってきていた(ただし、ステュアート朝期における王室と議会の対立の源となった社会矛盾の多くはテューダー朝期に由来している)。三十年戦争では、1624年にフランスの呼びかけに応じてデンマーク=ノルウェーを対ハプスブルク同盟へ引き込む為に資金を提供した結果、王室は財政難に苦しむことになった。

しかし、1625年に王位を継承したチャールズ1世は、変化に対応する能力に欠けており、王権神授説にもとづき議会と対立し、大陸の戦火がイギリスにも及ぶことに成った。イングランド内戦(en)は、1641年のアイルランドのカトリックが蜂起してアイルランド・カトリック同盟政権を樹立したアイルランド革命(英語版)(アイルランド同盟戦争(英語版)の発端)から始まった。翌1642年にイングランドでも王と議会の対立から第一次イングランド内戦(英語版)(1642年 - 1646年)が始まった。スコットランドでも二次にわたる主教戦争を経て1644年、盟約派と国王派の間でスコットランド内戦(英語版)が始まっている。特にイングランドではピューリタニズムの影響を受けて民衆運動となり、次第に過激化・大規模化していった。国王派(騎士党)と議会派(円頂党)の内戦は議会派が勝利して終わった。議会派内でも内部対立がおこって第二次イングランド内戦(英語版)(1648年 - 1649年)が起こり、国王チャールズ1世の処刑が行われた。

共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が樹立された。第三次イングランド内戦(英語版)(1649年 - 1651年)はそれぞれの勝利した陣営によって三つ巴の戦争に発展し(三王国戦争、英語: Wars of the Three Kingdoms)、特にアイルランドでは現在も続くアイルランド問題の発端となったクロムウェルのアイルランド侵略(1649年 - 1653年)が行なわれた。1652年には第一次英蘭戦争(英語版)が始まり、イングランド内戦を制した後もイングランド共和国は安定せず、1653年には大きな軍事的功績をおさめたオリバー・クロムウェルが担ぎ上げられる形で護国卿となった。1654年に英西戦争(英語版)が始まってダンケルクを占領したものの、護国卿政は5年で破綻した。

1660年の王政復古(英語版)(王政復古)によって清教徒革命は失敗に終わり、かくしてイングランド・スコットランド・アイルランドは王政に復した。しかし、星室庁や独自の財源を失ったステュアート朝の王権弱体化は明らかであった。実権を掌握しつつあったイングランド議会は王権神授説や絶対王政を志向する王との溝を深めてゆき、それはやがて名誉革命を招いて、王を中心とする絶対君主制から議会を中心とする立憲君主制へと移行することになった。清教徒革命はステュアート朝の王たちが目指していた絶対主義から脱却するという点から市民革命のひとつとして分類される。現在では名誉革命と併せてイギリス革命として議論されることが多い。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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