Subject : 清
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清
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中国の東北(満州)から興り、明(みん)を継いで中国を支配した満洲族の王朝(1616〜1912)。中国史上最後の王朝で、その末期は中国近代史に入る。
満洲族は半猟、半牧、半農の生活を営んだツングース系民族で、女真(じょしん)または女直(じょちょく)といわれていた。金の滅亡(1234)後、元・明に服属したが、明では海西(かいせい)、建州(けんしゅう)、野人(やじん)の3部に分かれ、衛所(えいしょ)制が敷かれた。海西、建州は耕牛や漢人労働の利用により、しだいに文化・経済生活を向上させた。17世紀に入ると、建州女直のヌルハチは、豊臣(とよとみ)秀吉の朝鮮出兵によって明の統制力が緩んだのを機として、女直諸部を統合し、1616年ハン位(清の太祖)について、国号を金(後金(こうきん))と称した。明は大軍を派遣したが、19年のサルフの戦いに敗れた。ヌルハチは遼東(りょうとう)平野に進出し、瀋陽(しんよう)(奉天府(ほうてんふ))に遷都した。26年ヌルハチが死ぬと、子のホンタイジ(太宗)が位につき、内モンゴルのチャハル部を討ち、「大元伝国(だいげんでんこく)の璽(じ)」を得たので、36年改めて皇帝の位につき、国号を清と称した。同年、朝鮮を完全に屈服させ、その宗主国となった。当時、中国では都市の民変、農村の抗租などの民衆運動が激化し、また朝廷内部の党争が尾を引き、明の支配は揺らいでいた。明から清へ投降する士大夫が多くなり、中国的な行政組織が整備された。1643年、太宗が没し、子の順治帝(じゅんちてい)が幼少で即位すると、睿親王(えいしんのう)ドルゴンが摂政(せっしょう)となり、翌年李自成(りじせい)によって北京(ペキン)が攻略されると、山海関の守将呉三桂(ごさんけい)と交渉し、呉三桂を援助し明皇帝の仇(あだ)に報いるとして、山海関を越え、華北に入った(清の入関)。清の大軍は北京を回復し、李自成を追って華北一帯を制圧した。清は北京に遷都し、明の後を継ぐ中国王朝となった。異民族支配への抵抗は、まず福王、唐王、桂王(けいおう)ら明の皇族、遺臣らによる南明(なんみん)の動きとなったが、大勢を回復することはできなかった。むしろ清の統一への障害は、一つには清初の三大思想家、顧炎武(こえんぶ)、黄宗羲(こうそうぎ)、王船山(おうせんざん)の流れをくむ江南士大夫の反清感情であり、もう一つは平定に功があった呉三桂(平西王、雲南)、尚可喜(しょうかき)(平南王、福建)、耿仲明(こうちゅうめい)(靖南(せいなん)王、広東(カントン))のいわゆる三藩の強大化にあった。1645年、南京(ナンキン)を攻略すると、女真の風習である弁髪を強制したのも、中華の誇り高き江南人士に清への服従を強いる踏絵であった。そのほか機会をとらえては奏銷案(そうしょうあん)(税の未納者を処罰したもの)などの疑獄を構えて反清排満感情を抑圧し、文字の獄、禁書を行った。三藩に対しては、急死した順治帝のあと、8歳で即位した康煕(こうき)帝が成人して親政を始めるや、1673年の撤藩(てっぱん)の議を契機に三藩削除の策を進めた。そのため三藩の乱が起こり、一時は南方6省を失うという事態にまで及んだが、81年、鎮圧に成功した。ついで83年には、最後の明の遺臣で台湾に拠(よ)った鄭成功(ていせいこう)の子孫も帰順し、清の統一は完成した。
康煕帝から雍正帝(ようせいてい)を経て乾隆帝(けんりゅうてい)の中ごろまでの約130年間は清の全盛期で、その版図は拡大した。康煕帝は東進南下したロシアと1689年ネルチンスク条約を結んで、ロシア人を黒竜江(こくりゅうこう)流域から駆逐した。ついでモンゴル高原に覇を唱えたジュンガルに雍正、乾隆の3代にわたって遠征し、青海を版図に加え、チベットを保護国化し、ジュンガルの故地に準部(じゅんぶ)・回部(かいぶ)(後の新疆(しんきょう)省)を置いた。乾隆帝の時代には、さらに西トルキスタンのコーカンド、ブハラ、アフガニスタンにも勢力を伸ばし、ビルマ(現ミャンマー)、ベトナムから、ネパールのグルカにまで遠征軍が送られ、諸国は清の朝貢国となった。
康煕、雍正、乾隆の3帝はいずれも有能な専制君主で、中国の文化や伝統を尊重して漢人官僚を重用し、租税の減免、黄河の治水、官吏の綱紀粛正を断行して民心を集め、社会の安定に寄与した。しかし、乾隆帝の晩年になると、権臣和(わしん)が賄賂(わいろ)をむさぼるなど、官吏の腐敗が著しくなって政治が乱れた。しかも、人口が3億人を超え、余剰人口は都市の流民や遊民、秘密結社や宗教結社を頼る者となった。そのほか少数民族地区へ入り込む者や海外へ出て華僑(かきょう)となる者も増大した。支配民族である満洲族の生活も苦しくなった。社会矛盾が増大して、地方に反乱が起こった。乾隆末年、四川(しせん)、雲南の辺境に起こったイスラム教徒(回民)やミャオ族などの諸反乱は、乾隆帝が嘉慶帝(かけいてい)に譲位した(1795)ころ、10年にわたって湖北ほか5省を席捲(せっけん)した白蓮(びゃくれん)教徒の大反乱となった。官兵である八旗(はっき)は無力で、民間の地主の軍(郷勇(きょうゆう))の力を借りた。しかし、その後も華南の海寇(かいこう)や北京の天理教の乱などが続き、世情は騒然としてきた。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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