Subject : 明 滅亡
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明 滅亡
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宦官の横暴や党派闘争による政治の乱れ、増税などで明の国内では反乱が続発するようになる。その代表が李自成の乱です。1630年代以降、流賊と呼ばれる反乱集団がたくさん生まれるのですが、李自成の反乱軍もそのひとつでした。流賊は都市を攻略して、略奪する。明の正規軍が出てくると、さっと退却して今度は全然別の地方にあらわれて都市の略奪を繰り返す。馬で移動して行動範囲がひろいので、流賊と呼ばれました。
李自成の反乱軍は、最初の頃は略奪集団とかわらないのですが、集団が大きくなると儒学者のブレーンがついて、李自成に新しい王朝を建てるようにすすめるようになる。李自成もその気になった。
明朝が、全力で李自成軍を鎮圧しようとすれば、多分できた。ところが、明朝は李自成軍鎮圧に全兵力を投入できなかった。理由は、北の清軍に備えて国境を防衛するのに必死だったからです。明の精鋭部隊は万里の長城の最東端、山海関に貼りついて離れることができなかった。
このすきに勢力を増した李自成軍は、1644年、40万の大軍で北京を占領してしまった。明朝最後の皇帝崇禎帝は宮殿の裏山に登って首をつって死んでしまった。あっけない明の滅亡でした。
李自成は、明にかわって新しい王朝を建国し、皇帝になります。まだ混乱の中ですが、、明の行政機構を掌握して、即位式の準備もはじめた。
山海関を守っていた明軍の司令官が呉三桂という将軍でした。清軍と戦っていたら、北京からニュースが来て、明が滅んだという。呉三桂、びっくりします。かれは明に仕える将軍ですから、身の振り方に困ってしまう。引きつづき、李自成からの手紙も来た。明は滅んだが、李自成の新王朝の将軍として引きつづき山海関を守れ、と。
呉三桂は、成り上がり者で流賊出身の李自成に仕える気にはなれなかった。そこで、なんと清側に寝返ってしまったのです。清朝のもとでの高位高官を交換条件にしたのでしょう。山海関を開いて、清軍を中国本土に導き入れた。清軍は呉三桂を先導役にして北京に向かって進撃します。
李自成は清軍を迎え撃ちますが、簡単に撃破されてしまった。かなわないと悟った李自成は、あわただしく皇帝の即位式だけ済まして北京を脱出。かわりに、清軍が入城して北京の新しい支配者となりました。李自成が北京を占領したのが3月19日、清軍の北京入城が5月2日。わずか、一月半の李自成の天下でした。
このあと、李自成は西安に逃れ、翌年、さらに落ちのびる途中、山の中で地元の武装勢力に殺されてしまった。
明から清への王朝交替というのは、単なる皇帝家の交替ではない。清は満州族の国ですから、漢民族が異民族の支配を受けることになったわけです。だから、この事件のキーパーソンである呉三桂の行動というのはいろいろ論議をよんだ。なぜ、かれが李自成ではなくて、清に味方したのか。いろいろな話があります。
俗に言われているのが「女性問題」説。呉三桂将軍には陳円円という滅茶苦茶に美しい愛人がいた。彼女は北京の呉三桂邸に住んでいて、山海関を守っている呉三桂とは離ればなれなわけです。
李自成が北京を占領したときに、呉三桂が一番気にしたのが、陳円円の安否。部下を北京に派遣して様子を探らせたら、李自成は評判の美女陳円円をすでに自分の宮殿に連れ込んでいた。怒り狂って呉三桂は、清側についたというのです。講談などでおもしろおかしく話された作り話でしょうね。
この前年にホンタイジは死んで、6歳の息子が清の皇帝になった。順治帝という。実権を握っているのは摂政のドルゴン。ホンタイジの弟です。
ドルゴンの指揮のもとで、清軍は各地の抵抗勢力を平定して中国全土を支配しました。ただし、当時の満州族の人口は60万、兵力は15万。これだけの軍事力で中国全土を支配するのは、物理的に無理があったので、清朝は投降してきた明の漢民族の将軍たちを積極的に利用します。呉三桂がその代表です。
統一後は、漢民族の将軍たちを藩王として中国南部地方の支配をまかせました。呉三桂は雲南地方の藩王となりました。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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