Subject : ムガール帝国滅亡
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ムガール帝国滅亡
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18世紀、インドはイギリス(東インド会社)とフランスの植民地戦争の渦に巻き込まれた。1757年にはカルカッタ北で、イギリス東インド会社書記クライヴ(1725〜74)率いる軍隊が、フランス・ベンガル太守連合軍を撃破(プラッシーの戦い)、フランス撤退後、イギリスはベンガルに踏み込んでインド支配の基礎を固め、独占的にインド経営に乗り出した。その後、イギリスはベンガル・ビハール・オリッサ各州の司法権・徴税権(ディワーニ)を獲得し(1765)、マラーター同盟やシク教徒を軍事行動で押さえつけるなど、植民地化は促進した。東インド会社は、インド人に課した重税を徴収し、本国との貿易も、東インド会社の独占的支配となっていった。
しかし、本国イギリスにおける産業革命の影響で、本国から自由貿易の要求が高まり、1813年、イギリス議会は、東インド会社のインド貿易独占権を廃止することを決め、1833年には同社の商業活動を全面停止にさせた。よってイギリス東インド会社はインド統治機関のみ機能する組織となった。
この決定が、インドを混乱に陥れる原因となった。インドの最も重要な産業である手織りの上質綿布はイギリスにはわたらず、逆にイギリスで簡単に機械で織られた安価な綿布がインド市場にまわってきたのである。製品ではなく原料の綿花をイギリスへ輸出する形となり、インド産の綿業は大打撃、町には失業者であふれた。この状態の中でもイギリスは屈辱的な制度を次々と導入した。まず1つに、ベンガル・ビハール・オリッサ地方で、納税義務を負う旧来のザミンダール(地主や領主)に土地所有権を与えるザミンダーリー制の実施である。この制度で農民は地主から土地占有権を取り上げられた形となるわけで、結果小作人になり下がった。もう1つは、南インド地方では農民(ライヤット)に土地所有権を与え、同時に直接地税を徴収させるというライヤットワーリー制の導入である。ザミンダーリー制とは違い、地主を完全抹消した農民の直接支配制度で、これにより旧地主の没落がおこった。こうしてイギリスのインド植民地支配は、旧来のインドの伝統社会まで崩す形となり、インド人の反英感情が高まった。
東インド会社は、植民地支配をスムーズに進めるため、インド人を傭兵として雇用、部隊を編成させ、対立者と戦わせてインド支配を続行した。このインド人傭兵(シパーヒー。セポイ)は、イスラム・ヒンドゥー、またはカーストも関係なく集められ、白人の将兵と比べて安い賃金で、待遇も悪く、イギリス支配に対する強い不平があった。1857年5月10日、メーラト(デリー北東)に駐屯していたシパーヒー部隊は、新導入のライフル銃に使用される弾薬包に牛と豚の油脂が塗られているという噂を聞きつけた。シパーヒー部隊は、この行為がインドの宗教・慣習を無視したとして大反乱を起こし(シパーヒー(セポイ)の反乱。インド大反乱)、部隊はデリーにむかい、ここを占領(デリー占領)、既に有名無実と化していたムガル帝国の皇帝バハードゥル=シャー2世(位1837〜1858)を、反乱の最高指導者として擁立し、シパーヒーのデリー政権として発足させた。
これに呼応するかのごとく、イギリスに不平を抱いていた他のシパーヒーや、旧王侯、旧地主、農民、都市住民らが、宗教・階級の枠を越えて一斉に蜂起し、北部インド、デカン地方は混乱となった。しかし、バハードゥル=シャー2世は、反乱軍を円滑に統一できず、結局イギリスの猛反撃にあい、9月にはデリーが奪還され、1859年には鎮圧された。バハードゥル=シャー2世は鎮圧完了するまでに廃位となり(1858)、反逆罪としてビルマ(現・ミャンマー)に流され、ラングーン(現・ヤンゴン。首都)で没した。これにより、ムガル帝国は名実ともに滅亡、東インド会社も反乱の責任を背負い解散(東インド会社解散。1858)、イギリス本国政府による直接統治となっていく。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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