Subject : 第1次中東戦争
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第1次中東戦争
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1948年5月14日、イスラエルは独立宣言を行った。これに対してはアメリカ、ソ連およびその衛星国が承認した。一方ユダヤ人国家の建国を認めない周辺アラブ諸国は、パレスチナに侵攻した。第1時中東戦争の始まりである。
開戦当初よりイスラエルは劣勢に立たされることとなった。首都であるエルサレムの旧市街が、グラブ中将以下のアラブ軍団により包囲され、守備隊は抵抗したものの兵員損耗及び弾薬の枯渇により降伏した。また交通の要所であり、テルアビブとイスラエルを結ぶラトルン峠もアラブ軍団により占領された。これは後方連絡線の途絶を意味していた。今だ健在のエルサレム新市街守備兵力が干上がらない為にはラトルン峠の奪回が必要と思われた。後に発揮された奪回作戦は失敗したが、後に新たな補給路(ビルマ・ルート)を構築することにより何とか継戦能力は維持することが出来た。
エジプトは戦車装備の兵力1万を持ってイスラエルへ攻撃を開始、戦車、対戦車砲などの有力な対戦車火器を持たないイスラエル軍を蹂躙した。順調に行くかと思われたその進軍であるが、イスラエルの航空兵力により止まってしまった。航空兵力など無いと思われていた建国間もないイスラエルによる航空攻撃はエジプト兵の士気をくじき、戦線は停滞した。
戦争は続いていたが、消耗戦は資源の少ないイスラエルにとって不利であった。よって、5月29日の国連決議による停戦はありがたいものであった。約1ヶ月間の休戦期間中、イスラエルは兵力の再編を図り、アラブ諸国は利害の不一致が浮き彫りとなっていった。
休戦期間中の両陣営は、戦争に対する体制再建において対照的であった。イスラエルは各種武装勢力を統合しイスラエル国防軍(IDF)を設立。一方のアラブ陣営は各国の足並みの乱れが際立ってきた。特にパレスチナ併合を目指すヨルダンと、それに反対する各国の間の溝が埋めがたいものとなっていった。
休戦解除と同時にイスラエルが発動した「ダニー作戦」は、中古のフランス及びイギリス製の戦車を装備した4個旅団により行われた。整備状態の悪かった中古戦車は次々と故障し、戦闘に寄与することが出来なかった。しかしながらダヤン大佐以下の第89機械化コマンド大隊の活躍などもあり、目標であったロッドとラムラの奪取に成功する。これにより首都テルアビブの安全が達成されたのだった。
1948年7月、国連により再び停戦決議が採択された。イスラエル及びアラブ連盟はこの決議を受諾したが、散発的な衝突は収まらずなし崩し的に戦争は再開された。同年10月、イスラエル国防軍(IDF)は「ヨアブ作戦」を発動した。3コ旅団と2コ大隊を用い、エジプト軍の撃滅を企図していた。戦闘によりエジプト軍は劣勢に立たされた。さらに発動された「ホレブ作戦」により、戦況は明らかにイスラエル側に有利であった。エジプト軍は各個に撃破され、IDFはエジプト領内へなだれ込んでいった。
明けて1949年1月1日、イスラエルはイギリスからの連絡を受けた。それは、もしIDFがエジプト領から撤退しないのであれば、イギリスがエジプト軍を支援するというものであった。イスラエルはこれにより停戦を決意する。すでに国連決議以上の土地を支配していたし、大国の介入をしのげるほどの国力もなかったのだ。アラブ側も当初の熱狂は覚め、これまでの敗戦による厭戦ムードが支配していた。
イスラエルはアラブ同盟6カ国(イラクは協定なしで撤収)とそれぞれと停戦交渉をし、協定を結んだ。その結果、ユダヤ教徒にとり神聖な嘆きの壁(イスラエル旧市街にある)はヨルダン支配地域であるが、ユダヤ人は自由に出入りできるとされた。しかしながらヨルダンは停戦後に彼らを旧市街には入れなかった。これはイスラエル国民のヨルダンへの憎悪を植え付けることとなった。
以上により、第1次中東戦争は幕を閉じた。しかしながらこれは、4次にわたる中東戦争の始まりに過ぎなかった。次の戦争がはじまるまでの7年間は、あくまで休戦期間でしかなかった。エルサレムを中心とするパレスチナ地域におけるユダヤ人、アラブ人、そしてパレスチナ人の共存は達成されていなかった。そして1956年に勃発した第2次中東戦争には、彼ら以外のプレーヤーが登場したのだった。イギリス、フランス、そしてソ連であった。
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<出典: 日本大百科全書(小学館) >
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