Subject   : インド独立 

カテゴリー  : 歴史  > 


  インド独立
国民会議派内ではネルー(ネール)を指導者とするより急進的なグループ(国民会議派左派)が台頭してきた。

 ネルー(ネール、1889〜1964)は、アラハバード市で富裕なバラモン階級の弁護士の子に生まれ、イギリスに留学してケンブリッジ大学を卒業し、弁護士の資格を得て帰国した(1905〜12)。帰国後弁護士となったネルーはガンディーと出会って国民会議派に入り、民族運動に身を投じた(1920頃)。そして国民会議派の若手の政治家として活躍し、1920年代後半からは国民会議派の指導者となった。

 1929年12月、ネルーの指導のもとで開かれた国民会議派ラホール大会では「プールナ=スワラジ(完全なる自治)」が宣言された。ラホール大会を機に運動は再び激化し、翌年から第2次の非暴力・不服従運動(1930〜34)が始まった。

 1930年3月、再び運動の先頭に立ったガンディーは製塩禁止法に反対して360kmに及ぶ有名な「塩の行進」を行ない、再び逮捕された。

 翌年釈放されたガンディーは、ロンドンで開かれた第2回英印円卓会議(イギリスがインドの独立運動の高まりを抑えるために指導者をロンドンに招いて開いた会議)に出席したが、何ら成果のない会議に絶望して帰国し、3度逮捕された(1932.1)。1934年に国民会議派を引退したガンディーは、その後不可触賤民の地位向上運動に従事し、彼らをハリジャン(神の子)と呼んだ。

 イギリスは指導者を逮捕・投獄する一方で英印円卓会議(1930〜32)を開くなど、弾圧と懐柔をくり返す中で、1935年には新インド統治法(改正インド統治法)を制定した。

 新インド統治法では連邦制と各州の責任自治制が導入されたが、インド人の完全独立の要求は無視され、かえってその導入をめぐってヒンドゥー教徒の国民会議派とイスラム教徒の全インド=ムスリム連盟の対立が深まった。



<出典: 日本大百科全書(小学館) >
 ⇒ 世界史年表

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