Subject : アッカド王国
カテゴリー : 歴史
アッカド王国
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前2300年頃都市国家を統一し領域国家を形成したのはのセム系のアッカド人であった。アッカド王国(前2334〜前2193頃)初代のサルゴン1世はシュメールの都市国家を支配下におき、知事を派遣して、都市国家の枠を超えた領域支配を行った。シュメールの都市は時に反乱を起こしたが、それを鎮圧した後、さらに強大となり、第4代ナムラ=シンは「四方世界の王」(四海の王ともいう)と言う称号を使い南北のメソポタミアとその周辺を支配した。しかしアッカド王国は、前2150年ごろ衰退して、前2193年、北東の山岳民族の侵入を受けて滅んだと言われている。
アッカド人はセム語系に属する民族で、メソポタミア全域を最初に統一した領域国家を建設した。アッカドはメソポタミア南部のユーフラテス下流でバビロニアといわれた地方の北よりの地域名で、現在のイラクの中部に当たる。彼らは次第に南部のシュメール人と抗争するようになり、前2300年頃、サルゴン1世がメソポタミア南部を支配し、アッカド王国(前2334〜2154年)(アッカド王朝とも言う)を成立させた。サルゴン1世は交易路を抑え、メソポタミア全域におよぶ中央集権的な領土国家の最初の支配者となった。アッカド王朝は11代約180年続いたが次第に衰退し、前2150年頃、バビロニアの東北からおこたグディ人の侵略を受けて滅亡した。その後、メソポタミアはふたたびシュメール人が独立し、ウルを拠点にウル第3王朝が出現する。アッカド時代の遺品としては、スサで発見された「ナラム=シン王の石碑」(ルーブル博物館蔵)が有名。
アッカド王国がメソポタミアほぼ全域を支配する領域国家となったことによって、アッカド人の使うセム語系のアッカド語がメソポタミアの公用語となり、都市国家段階のシュメール語は使われなくなった。しかし、アッカド人は文字を持っていなかったので、その表記にはシュメール人の楔形文字を使った。これによって楔形文字は継承され、さらにメソポタミア全域で用いられる文字になった。前18世紀の古バビロニア時代の有名なハンムラビ法典もアッカド語を楔形文字で書き表している。前7世紀前半にオリエントを統一したアッシリア帝国においては公用語はアッカド語とアラム語が併用され、アッカド語を書くには楔形文字、アラム語を書くにはアラム文字が使われていた。
- ● サルゴン1世
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メソポタミアのセム語系のアッカド王朝の王。正しくはシャルキン王という(サルゴンは『旧約聖書』に出てくるヘブライ語にもとづく英語表記。シャル=キンは「真の王」を意味する)。紀元前2300年頃、メソポタミア南部のシュメール人の都市国家を制圧して、はじめて統一国家を築き、「シュメールおよびアッカドの王」となり、その碑文には「上の海(地中海)から下の海(ペルシア湾)まで」(「四海の王」と言われる場合もある)を支配したとある。彼はメソポタミアに初めて領域的支配を打ちたて「戦争王(戦いの王)」とも言われた。周辺世界との交易を積極的に行ったらしく、サルゴン王時代の楔形文字の押された粘土板文書には、インダス文明を示すと思われる「メルッハ」や、オマーン、バーレーンとも交易を行っていたことが記されている。なお、後のアッシリア帝国にも前8世紀にサルゴンを名のる王が出現する(サルゴン2世が有名)
- ● ウル第3王朝
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前2100年頃、シュメール人がメソポタミア支配を再建した領域国家。
シュメール人がウルを中心に独立を回復し、メソポタミアを支配した王朝(前2112〜2004年)。ウルに都をおいた三番目の王朝という意味でウル第3王朝と言う。アッカド王朝の衰退に乗じウルのシュメール人軍事司令官ウル=ナンムが建国。約100年しか存続しなかったが、その間、最初の法典の整備が行われシュメール法典(「ウル=ナンム法典」ともいう)が編纂された。また法に基づく行政や裁判が行われていたらしく、膨大な行政、財政、租税、裁判記録などを記した粘土板が出土している。このようなウル第3王朝には「最初の官僚制国家」という位置づけがされている。
ウル第3王朝は5代約100年続いた後、前2004年頃、東方(イラン方面)から侵入したエラム人によって滅ぼされた。
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