Subject : アレクサンドロス大王の東方遠征
カテゴリー : 歴史
アレクサンドロス大王の東方遠征
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アレクサンドロス大王は前334年から前323年まで、ギリシアの東方、アケメネス朝ペルシアの支配する広大な地域への大遠征を行った。アレクサンドロスの東方遠征の理由は、古来、ペルシア戦争の復讐戦であるとか、大王の領土的野心、インド征服の夢など、さまざまな見解があるが定説はない。大王自身は、自由なギリシアが、僭主や異国人の王に支配され奴隷の境遇にあるアジアの民を解放する戦いであると(あたかも前アメリカ大統領ブッシュのような)戦争目的を部下の将兵に語っている。背景には、ポリス社会の崩壊に伴い、ポリスというよりどころを無くしたギリシア民衆の不満と不安のはけ口を求める声があったのではないだろうか。また、征服地には各地に植民市アレクサンドリアを建設し、ギリシア人を入植させた。遠征後半はペルシア人など現地勢力との融合をはかる政策をとった。これらは東西融合政策といわれている。
アレクサンドロスは東方遠征に先立ち、前335に北方のトラキアと南方のギリシア本土テーベを制圧。テーベを破壊し、コリントス同盟会議で翌年からの東方遠征を表明した。前334年(22歳)5月ペラ東方のアンフィポリスに軍を終結させ遠征出発した。
以後のルートは
、同年夏ダーダネルス海峡を越えグラニコス川の戦いでペルシア軍と最初の戦闘 →
ペルシアの小アジアの拠点サルデスに入城、ついでミレトス、ハリカルナッソスを次々に攻略し小アジアを東進 →
前333年11月、イッソスの戦い。初めてペルシア帝国ダレイオス3世と会戦。敗れたダレイオスは東方に逃亡 →
前332年1月、フェニキア人のティルスを苦戦のすえ攻略 →
同年冬、無抵抗のエジプト、メンフィスに入る。前331年、ナイル河口にアレクサンドリア市を建設 →
再びシリアに入り、前331年10月、ガウガメラの戦いでダレイオス3世を破る。敗走したダレイオスはさらにアルベラの戦いで北方に逃亡 →
同年末、バビロンに入城 さらにスサに至る →
前330年1月、ペルシア帝国の都ペルセポリスに入る →
王宮を破壊、ペルシア帝国滅亡 →
ダレイオス3世を追撃し、エクバタナ(メディアの旧都)へ →
ヘカトンピュロス(後のパルティアの最初の都) →
カスピ海南岸を経てイラン高原を転戦 →
前329年冬、バクトリアに入る →
マラカンダ(現在のサマルカンド)など、ソグディアナ各地を攻略、各地にアレクサンドリアを建設 →
前327年春、パミールの豪族の娘ロクサネと結婚 →
同年秋、カイバル峠を越えてインドに侵入。パンジャブの象部隊と戦う。将兵の中に帰国を望む声強くなる。→
前325年、インダス河口付近のパタラから西進に転じる →
イラン高原南部を西進、別働隊(ネアルコス指揮)は艦隊を編成してインダス河口からペルシア湾に向かう) → 前323年、バビロンに戻る。
さらに西進し、地中海方面への遠征を考えていたらしいが、熱病にかかり、6月17日に死去、32歳であった。
- ● アレクサンドロス大王の戦術
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アレクサンドロス大王の軍は、陸軍が主体で、ギリシアの重装歩兵密集部隊戦術をさらに改良したものであった。甲と脛当に小型軽量の丸楯を防具とし、武器はサリッサという5〜6メートルの長槍を用い、密集して方陣をつくり、最前列から第3列までは槍を水平にかまえ、それより後方の列は斜め前に保って突撃し、前列が倒れれば次の列が槍を繰り出し、連続して敵を攻撃した。また、アレクサンドロス軍は、腱または人間の毛髪を堅くよじってそのねじり力を利用した二種類の射出機を用いた。その一つはカタペルテスで、小型で矢や礫を打ち出すのに使い、もう一つはペトロボロスといって20〜27キロの石弾を射出できる大型のものだった。
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