Subject   : 黄河文明

カテゴリー  : 歴史  


 黄河文明
 BC5000〜BC4000年頃から黄河の中下流の黄土地帯では初期農耕が行われていた。彼らは磨製石斧(ませいせきふ)や彩文土器(彩陶)を使っていた。

 長江流域でもBC5000年頃から稲作農耕が行われていた。BC2000年〜BC1500年頃になると牛や馬も飼われ、彩陶に比べて薄くて固い土器が作られるようになった。この文明は黒陶文化と呼ばれている。

 中国の伝説の王に堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)がいる。堯は王位を舜に譲り、舜は治水で頑張った禹に譲った。

 禹は自分の子供に王位を譲り、最初の王朝夏を開いた。

● 殷と周
  黄河中下流域には都市国家邑(ゆう)が発達し、多くの邑を支配する王が現れた。最初の王朝は夏で、BC1600年頃に河南省に殷(または商)が登場した。殷の遺跡が殷墟(いんきょ)で王の墓が発掘されている。 

 殷の政治は神権政治で、占いで神に伺いをたてて政治を行った。殷王が占いに使ったのは牛の骨や亀の甲羅である。占った結果は甲羅や骨の裏側に記録され、この文字が漢字の原型甲骨文字である。また殷では青銅器が用いられていた。

 殷の最後の王が紂王(ちゅうおう)で、妃の妲己(だっき)を寵愛し、彼女に言われるまま怠惰な生活をおくった。庭の池に酒を満たし、木に肉をぶら下げ、池で美女たちとたわむれて遊ぶ酒池肉林の語源となった。

 周の武王は、弟周公旦や軍師太公望(本名:呂尚 りょしょう)とともに立ち上がり、紂王を牧野の戦いで破った。そしてBC1100年頃、周王朝を開いた。

 12代目の幽王の妃ホウジはどんなことがあっても笑顔を見せなかった。幽王は彼女の笑顔を見たさに悪行を重ねたため、国は荒れ諸侯は離散した。BC770年、犬戎(匈奴)が都に侵入し、幽王は殺された。太子は東の洛邑(洛陽)へ移り東周となった。


 ⇒ 世界史年表

[メニューへ戻る]  [HOMEへ戻る]  [前のページに戻る]