Subject   : トロイ戦争とカデシュの戦い

カテゴリー  : 歴史  


 トロイ戦争とカデシュの戦い
 紀元前14世紀には、エジプトの大王ラムセス2世が、ハッティ(ヒッタイト)帝国と戦争し、そのなかでも「カデシュの戦い」という決定戦があったという記録がエジプトにありました。 また、20世紀初頭になり、小アジアのボガズキョイの遺跡を発掘すると、そこがハッティの首都であり、更に、「カデシュの戦い」の記録が発見され、エジプト側の記録と比べて、内容がほぼ合致するので、「カデシュの戦い」は、「歴史的事実=史実」だと確認されました。  ところが、伝説の詩人ホメーロスが造ったとされる、『イーリアス』や『オデュッセイア』などに歌われている戦争の主舞台である「トロイエーの都市」が実際に過去に小アジアに存在したことは、ハインリッヒ・シュリーマンの発掘等で確認されましたが、古代ギリシア連合軍と、トロイエー都城のあいだであったという歴史的記録や証拠が残っていません。 アカイア族(古代ギリシア人)が、各地に勢力を拡大し、略奪行為などを行ったという発掘的証拠はあり、トロイエー都城側でも、小アジアの商業的軍事的要衝にあったこの都市に、幾度も争乱があり、侵略者が出現し、戦いがあったという発掘的事実は見つかっていますが、アカイア族の連合軍が大挙してトロイエーに侵攻し、十年に及ぶ戦争が行われたなどという記録・証拠はありません。 シュリーマンが発掘したトロイエーの都城は、明らかに年代の異なる幾つもの地層に分かれており、それぞれの地層において、異なる建造物の遺跡などが見つかりました。これからすると、トロイエーは、千年かそれ以上の期間、幾度も都城が築かれ、崩れ、その崩壊した遺跡の上に、また新しい都城が築かれたのだということが分かります。 都城が火災によって滅びたと考えられる遺跡地層もあるので、これが、「トロイエー戦争」のトロイエーの遺跡だとの説もありますが、時代が合わないようです。

● ホメロスの叙事詩「イリアス」のトロイ戦争
叙事詩によれば、トロイ戦争が起ったのは、紀元前1200年頃とされている。

 その頃、ギリシアのぺリオン山では神々の結婚式が行われていた。結婚式にはすべての神々が招かれたが、争いの女神エリスだけは招待されなかった。無視されたと知って怒ったエリスは災いの種を播くために黄金のりんごを婚宴の席上に投げ込んだのであった。その黄金のりんごには「最も美しい女神にこのりんごを捧げる」と描かれていた。当然、その場に居合わせた3人の女神、ヘラ、アテナ、アフロディテの間で激しい論争が巻き起こされることになった。つまり、争いの神エリスの放ったりんごは予想どうり災いの種となったのである。3人の女神は自分こそは、そのりんごを得るにふさわしい存在だと主張して一歩も譲ることはなかった。そして、挙句に、彼女らはその判定をゼウスに迫って来たのであった。ゼウスは悪い予感が当たったとばかり尻込みをしたが、そこは全能の神ゼウス、平静心を装いながら、傍にいたトロイのパリス王子に、まんまと審査員の役を押しつけうまく逃げてしまったのであった。

女神ヘラは自分を選んでくれれば、小アジア全土を与えようと言った。アテナはあらゆる戦での勝利を約束した。アフロディテは世界中で最も美しい女性と結婚させてあげようと言った。パリス王子は、アフロディテに黄金のりんごを送ったのであった。アフロディテは、パリス王子をエーゲ海の向こうのスパルタの王城内へと導いて行った。そして、パリス王子はその王宮内で絶世の美女ヘレンを目撃したのだった。 その時、 ゼウスがスパルタ王妃レダに生ませた王女ヘレンはメネラオスと結婚しており、スパルタの王城に住でいた。 彼女の方もパリス王子の言うがままとなり、あまたの財宝を船に積み込むと夜陰に乗じて海に乗り出しトロイに向かっていった。

パリス王子とヘレンが密かにスパルタを出帆したのを知った夫のメネラオスは激怒した。さっそく、兄であるミケーネ王のアガメムノンと相談して遠征軍をトロイに送ることを決めてしまった。ギリシア全土から兵がかき集められた。軍船だけでも1000隻を下らぬ大軍団であった。やがて、ギリシアの大艦隊は、エーゲ海を渡りトロイの城を望見出来るほどに接近した。  攻撃に先だって、ギリシア側は使者を送り、ヘレン返還を求めた。パリス王子はこれを固く拒否した。トロイ側はすべての城門を閉ざして城内に立てこもり防戦の構えを取った。こうしてトロイ戦争の幕は切って落とされたのである。
 ⇒ 世界史年表

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