Subject   : アケメネス朝ペルシア帝国

カテゴリー  : 歴史  


 アケメネス朝ペルシア帝国
 メディア王国辺境の従属国ペルシアの王キュロス(2世、大王、在位前559〜530年)は、反メディアの軍を起こし、メディア軍ハルパゴスの寝返りによって勝利を得、前550年メディアの領土を受け継いでペルシア王国を建てた。前547年にはリディアの首都サルディスを陥とした。前539年にはバビロンに無血入城、オリエント世界を統一した。

 キュロス大王の生涯は各地の反ペルシア勢力を叩く戦いに費やされたが、内政ではメディアの体制をそのまま引き継いだと見られ、後世まで理想的な君主と讃えられた。特にバビロンに移住させられていた異民族を解放するなど、諸民族・諸文化に対して寛容だった。旧約聖書は捕囚中のユダヤ人を解放し、エルサレム神殿の再建を許したと讃える。

 キュロス大王の子2代カンビュセス2世は、父王が準備していたエジプト遠征を行い、サイス朝エジプトを攻略、これを属州とした(前525年)。カンビュセスはエジプトに5年間とどまり、この間にエチオピア遠征やカルタゴ遠征を実行・企画などしたが、いずれも失敗した。

 カンビュセスには子が無かったため、一族のダレイオス(1世、大王、在位前522〜486年)が王位についた。直系ではなかったため、即位後帝国内のいたる所で叛乱が起きたが、これを鎮圧し、戦勝記念碑としてベヒストゥーン碑文を残した。

 ダレイオス1世はキュロス2世によって建てられたペルシア帝国を、整備し完成させた。広い領土は20〜29のサトラペイア(州)を置き、サトラップが支配した。サトラップは領内を独自の伝統に基づいてかなりの自立性をもって統治できたが、一方で「王の目」「王の耳」と呼ばれた王直属の官僚によって監視された。また毎年決められた貢ぎ物(税)を納め、戦争には軍隊を率いて参集する義務を負った。領内には迅速な情報伝達の必要性から「王の道」と呼ばれる道路網を整備した。これは小アジアのサルディスからスサまで、その長さは2400キロに及んだ。度量衡の統一もはかり、銀・銅貨は帝国各地で流通した。金貨も発行されたが、一般には流通しなかったと見られる。またペルセポリスの宮殿やその北方ナクシェ・ルスタムに墓所を建築・造営した。両所にはベヒストゥーンと合わせ、三大碑文が残されている。ペルセポリス宮殿は後にアレクサンドロスによって焼き払われた。碑文には、ダレイオス1世がアフラ・マズダー(ゾロアスター教の天地創造主)の恵みによって王位についたこと、また、1世は虚位を邪悪なものとして嫌い、正義の実現を目的とした、と書かれている。後の部分はゾロアスター教の信仰の核と言えるものだ。イラン高原東北部で確立されたゾロアスター教は、キュロス2世の時代にはペルシア人に受け入れられていたが、ダレイオス1世のときには帝国各地に広まったと見られる。

 ダレイオス1世の前498年小アジアのアドリア海に面したイオニア地方で、ペルシアの支配から脱しようとして叛乱が起きた。その中心都市ミレトスはギリシアのアテネに援助を求め、アテネは小アジアに出兵してサルディスを焼き打ちした。叛乱自体は前494年鎮圧されたが、アテネの介入に怒った大王は、前492年ギリシアに出兵、ここにペルシア戦争が勃発した。  戦いは断続的に行われた。前492年出兵したペルシア軍は海路途中で暴風雨に遭い撤退。前490年メディア人ダティス将軍率いる艦隊は、マラトンの海岸に上陸したところを、アテネ市民軍他に不意をつかれて撤退。二度にわたる失態に怒った大王は、折悪しくエジプトで起こった叛乱を抑え、自ら遠征しようとした矢先の前486年没した。

 後を継いだクセルクセス1世(4代、在位前486〜465年)は父王の意志を継ぎ、前480年大軍を率いて侵攻した。途中レオニダス王率いるスパルタ軍がテルモビレーの戦いで玉砕。アテネは市民が海に逃れたためペルシア軍はアテネを占領したが、アテネは海に決戦を求めサラミスの海戦で奇跡的な勝利を得た。この結果クセルクセス1世の主力軍は包囲されることを恐れ、アテネから撤退した。その後ペルシア帝国がギリシア侵攻を企てることはなかった。

  8代アルタクセルクセス2世(在位前404〜359年)のとき、サルディスにあって小アジアの司令官に任じられていた弟小キュロスの叛乱に遭ったが、小キュロス本人の戦死により事なきを得た。この時小キュロスの傭兵となった多くのギリシア兵の中にあったクセノフォンは、この模様をギリシア文学の傑作「アナバシス」としてまとめた。小キュロス死んだ後、ギリシア人傭兵たちはペルシア軍が遠巻きに監視する中、隊を組み、冬のアルメニア山地を越え、ようやく黒海に達して帰国した、という物語だ。  この王の時代にゾロアスター教に大きな変化が生じた。それは従来のアフラ・マズダーに加え、ミスラ(すべてを見、すべてを知る、契約の神)とアナーヒター(水の女神)の二神が崇拝されたことだ。特にアナーヒター女神の像とこれを置く寺院が各地で建立され、それまでの寺院や神像の無い簡素な信仰に変化が生じた。さらに、ゾロアスター教の崇拝の対象であった火を寺院に置いて、その火を消さず粗末に扱わないという、火の寺院の制度が普及した。

 前334年に始まるマケドニアのアレクサンドロス大王の東方遠征と戦うこととなり、ダレイオス3世が迎え撃ったが、前333年のイッソスの戦い、前331年のアルベラの戦いで敗れ、前330年には都のペルセポリスが破壊されて滅亡した。ダレイオス3世は逃れたが、途中サトラップに捕らえられ殺害された。

● ペルシア帝国の文化
 イラン人はアッシリア帝国及びメディア王国の支配を受けていたが、前6世紀に自立してキュロス2世が前550年にメディアを滅ぼし、アケメネス朝ペルシアを建国、新バビロニア、エジプトを征服して西アジアに大帝国を建設した。その本拠地がイラン高原のペールス地方だったので、彼らはペルシア人とも言われた。ペルシア帝国はイラン高原とその周辺のメソポタミア、小アジア、エジプトなどの西アジア全体を支配する世界帝国として繁栄し、前6世紀末のダレイオス1世(大王)は都のペルセポリスとスサを結ぶ王の道を中心とした駅伝制を整備、全土を州に分けてサトラップを置き、中央から王の目、王の耳を派遣するなど中央集権支配を行い、全盛期となった。アケメネス朝の王はいずれもゾロアスター教を信奉したが、他の宗教(ユダヤ教など)にも寛容であった。しかし独自の文字を持つことはなく、王の業績を記した多数の石碑を遺しているが、それらはオリエント古来の楔形文字で記されている。民間では商業民族のアラム人が活動し、商取引ではアラム文字が使われていた。

 アケメネス朝ペルシア帝国の諸王はゾロアスター教を信仰し保護していたが、他の宗教に対しても寛容であった。それはキュロス2世がバビロンを征服したときにユダヤ人をバビロン捕囚から解放し、ユダヤ教の信仰の自由をその後も認めたことなどに現れている。同じように他民族の文化や生活習慣についても寛容であったので、領内では様々な言語と文字が使用されていた。

 帝国の公用語としてはペルシア語(古代ペルシア語)が用いられたが、それを書き記す文字はメソポタミア文明以来の楔形文字を表音文字として使用した。ダレイオス大王の業績を称えるベヒストゥーン碑文も楔形文字で記されている。しかし領内で商業活動に従事したアラム人の使用するアラム語とアラム文字も、広く共通語、共通文字として使用されていた。

 ペルシア帝国は広大な領土に多様な民族と文化を内包する「世界帝国」の典型であった。官僚制度や交通網を発達させ、中央集権的な専制国家であり、高度な文明を誇っていた。楔形文字を使用するなど、オリエント文明を継承するとともに、新たなイラン文明を作り上げ、次のパルティアとササン朝ペルシアに継承される。イラン人のゾロアスターが始めたゾロアスター教を保護し、国教に準ずるような扱いをしたが、他の宗教にも寛容であった。
 ⇒ 世界史年表

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