Subject : ダレイオス1世
カテゴリー : 歴史
ダレイオス1世
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前6〜5世紀、オリエント全域を支配したアケメネス朝ペルシア全盛期の支配者。前500年にギリシア遠征(ペルシア戦争)を開始した。
アケメネス朝ペルシア帝国の全盛期の王。在位522〜486年。ダレイオス大王、ダリウス大王ともいう。ヘロドトスの『歴史』によると、彼はアケメネス家の傍系のヒュスタスペス(ゾロアスターを保護し、入信したという伝承がある)の子であったが、初代キュロス2世の娘と結婚、第2代カンビュセス2世のエジプト遠征に従って功績を挙げた。カンビュセス王の死後に反乱が起こると、彼がそれを鎮圧して第3代の王位に就いたという。
ダレイオス1世は権力を握ると、法による支配を目指し、新都ペルセポリスの建設を開始し、国内を20の州に分けて中央からサトラップを派遣し、道路(王の道)や港湾を建設、さらにダリークという貨幣を鋳造し、度量衡を統一しペルシア帝国の繁栄の基礎を築いた。帝国の領土を、中央アジア・インド方面に広げ、さらに西進して小アジアを超え、ギリシア北方のマケドニアに進出した。さらにギリシア本土の征服をめざしたが、ギリシア側の抵抗にあって苦戦し、次のクセルクセス1世に遠征の事業は引き継がれたが、結局失敗した。それがペルシア戦争である。イランのベヒストゥーンからは彼の業績を記念した碑文が発見され、その楔形文字がローリンソンによって解読され、その事跡も明らかになっている。
ダレイオス1世の時にペルセポリスが建設されて首都とされれたが、他にスサなども都としての意味を持っていた。ペルセポリスは主たる王の居住地であるが、主として宗教的な儀式が行われ、スサには官庁が置かれ実際の政治の中心となっていた。またメディア王国の都であったエクバタナは高原にあったので、ペルシア帝国では夏の都とされ、冬は新バビロニアの都であったバビロンが都とされたという。またパサルガイ(ペルセポリスの北方)は初代キュロス2世の墓があり、王の即位式もここで行われた。現代の国家における首都の概念を当てはめることは出来ないのであり、王がその時々に滞在するところが都であったと言うのが実情であるが、一般的には祭儀のための都がペルセポリス、政治上の首都はスサとされている。
ダレイオス1世の前500年、支配下にあった小アジアのイオニア地方の反乱を機に、4回にわたるギリシア遠征を行い、アテネを中心とするポリス連合軍と戦った。これがギリシア側の言うペルシア戦争であるが、結局ギリシア支配には失敗する。その後もペロポネソス戦争ではスパルタを支援し、コリント戦争ではポリス間の対立を仲介(大王の和約)するなど、ギリシアへの干渉を続けた。
- ● ダレイオス1世の墓所(ナクシェ・ルスタム)
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ダレイオス1世はペルセポリスの近く、ナクシェ・ルスタムの山腹に墓所を造り、その後三代にわたって造営された。墓の入口には王自身が三段からなる檀の上に立ち、右手を挙げ、祈っている姿が描かれ、彼に向かいあって高い台の上で燃え輝いている火があり、王の像と火を載せている広い壇は三十人の人に支えられている。これらの人々はそこに彫られた名から、ペルシア帝国を形成する30の民族を代表していることが分かる。壇上の両側には三人ずつ縦に六人が並んでいる。彼らはいずれも左手を口をおおうように上げて袖で隠す儀礼的仕草をしており、ダレイオス1世の即位を助けた6人のペルシア人貴族を表している。それはまたアフラ・マズダを助ける六柱の霊神(アムシャ・スプンタ)に対応している。ダレイオス1世はこのように自らをアフラ・マズダの地上での代理人と支配していることを宣言しており、ゾロアスター教を信奉していたことがわかる。
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